堀内健自分史 堀内健康白書P142〜P149参考

年代 年齢 出来事
1969年
(昭和44年)
11月28日
0歳 横須賀市南共済病院にて堀内家長男として生まれる。体重3040g。不必要に泣いたりしない、おとなしい赤ちゃんだった。
1971年
(昭和46年)
2歳 妹・明子誕生。第一次反抗期突入。
「手をつなぐのを嫌がって、降りきってトコトコ行ってしまうんですよ。車道に出てしまうこともあって…。危なかったですねぇ。この子は落ち着きがないんだ…。と思ったものです。妹が生まれると、ヤキモチを焼くようになって、明子におっぱいをあげていると、健ちゃんもミルク!というんですよ。仕方ないから、哺乳瓶を渡していました」(母・談)
1972年
(昭和47年)
3歳 第一次お調子者期始まる。
「ケンちゃんシリーズ」「サザエさん」にハマリ、嫌がって泣く妹の手を引っ張って家の中をぐるぐる走り回る。母に「明日を作る、技術の東芝がお送りしま〜す」と言わせるのが定番だった。「フンガッ フグッ」をつけるのは、消して忘れなかった。
1973年
(昭和48年)
4歳 田浦幼稚園入園。
「幼稚園はあまり好きじゃなかったです。隣の家に同い年のあっクンって子がいて、その子と遊んでいたかったんです。幼稚園に行っても、あっクンのことばかり探してた」(堀内・談)
1976年
(昭和51年)
7歳 横須賀市立船越小学校入学。落ち着きのない子の本領を発揮し始める。
「とにかく、毎年のように怪我してた。鎖骨を折ったり、塀から落ちたり、バラ線で切ったり…。自転車でがけから落ちたこともありました」(堀内・談)
第二次お調子者期は怪我の連続でもあったのだ。
小児ぜんそくを患っていたため、小学2年生から水泳を始める。また、同じ年習字もスタート。どうやら健少年に落ち着きをつけるために通わせていたと思われる。
「習字はけっこううまくて、小学生の部の二段か三段まで行きました。今は…もう字がうまいとはいえません。」(堀内・談)
1979年
(昭和54年)
10歳 地元の少年野球チーム 船越ファイターズ入団。
背番号24、サードを守り、野球のおもしろさに目覚める。
野球に夢中になる一方、悪ふざけにも余念がなかった健少年だが、成績は「上」だった。得意科目は、意外にも理数系だった。
1982年
(昭和57年)
13歳 横須賀市田浦中学校入学。当然のごとく野球部に入部。
「野球部に入るのが当然だったな。当時は甲子園も目指していたし、プロ野球選手になりたいと思ってた。」(堀内・談)
このころ同級生の女の子が好きになる。
「身体が大きい子で、アンドレって呼ばれてた。アンドレ・ザ・ジャイアントに似てるから。好きになると、いままでふざけていたのに急に口が利けなくなって、顔がまっかっかになっちゃうのを覚えています。」(堀内・談)
1984年
(昭和59年)
15歳 第三次お調子者期、華々しくスタート。
「中三のクラスで仲良し4人グループができ、その中でもヒロミツ(ヒロちゃん)のやることのおもしろさといったら、群をぬいていた。彼の影響で、おもしろいイコールカッコイイと思うようになったのは、確かです。」(堀内・談)
そして、受験勉強スタート。
第一志望の、神奈川県立逗葉高等学校入学に向け、受験勉強を開始。
「この高校は、市内の中高生から、夢の学園って呼ばれてた。とにかくカワイイ子が多いことで有名で、制服もブレザーでカッコよくて…。ここに入りたかったんだけど、今の成績じゃ難しい。って言われて…。あんなに勉強した事はないってくらい、頑張りました。」(堀内・談)
1985年
(昭和60年)
16歳 念願の神奈川県立逗葉高等学校入学。
「野球はもういいやと思って、柔道部に入った。友達にさそわれたからっていうのが、1番の理由です。」(堀内・談)
1986年
(昭和61年)
17歳 柔道部をわずか1年で退部。
「友達が辞めちゃったから、じゃ、おれもって。入る時と一緒。でも、後悔しました。中学の時は、野球部で一生懸命やってたから、つらい事も多かったけど、楽しい事も多かった。でも高校時代って、特につらい事もないかわりに、楽しい事もなかった。薄っぺらいっていうか…。だから、思い出も少ない。つまらないよね、こういうのって」(堀内・談)
1988年
(昭和63年)
19歳 大学受験に挑戦。
「どこの大学に行きたい!っていうより、とにかく東京の大学に行きたかった。っていうのは、ひとり暮らしをしたくて。だから自分が受かりそうな、都内の大学で一番バカなところ、全部で10学部ぐらい受けました。」(堀内・談)
受験1ヶ月前から猛勉強を始めるが、友達からマージャンやドライブに誘われるとつい乗ってしまう健少年だった。
「勉強してるからダメだよ。っていうと、友達がじゃぁ、勉強しながらやればいいじゃん。って。それもそうだなって、教科書片手にマージャンしたりドライブしたり…。こんなんで受かるわけない。」(堀内・談)
神奈川県立逗葉高等学校卒業。浪人生活へ。
健少年にとって、そこそこに楽しかったと同時に退屈でもあった高校生活が幕を閉じる。
「親は毎日予備校に通う、本科生になれって言うわけ。でもボクはそんなのイヤで、オレは自由な浪人生になる!って宣言して。でも、夏季講習だけはうけろってことになったんだけど、授業料はらった1週間後には、キャンセルしますっていってお金返してもらって。5万くらいあったんだけど、全部パチンコで使っちゃった。親には予備校に行くフリをしてたんだけど、ボクの中では、夏の時点で浪人も辞めてました。」(堀内・談)
漠然と抱いていた「お笑いの仕事がしたい」という気持ちが次第にくっきりした形になってきたのはこのころだった。
この年の秋ころから近くの東芝工場で夜勤のバイト。
「このバイトで1ヶ月30万円くらいもらっていたんだけど…ぜ〜んぶパチンコで使っちゃった。当時はパチンコにはまってて、友達何人かとパチンコ新聞とか作って遊んでた。楽しかったです。」(堀内・談)
1989年
(平成1年)
20歳 東京観光専門学校入学。
「当時流行ってた、男女7人秋物語で、ドラマの主人公の明石さんまさんがツアコンだったんで、ツアコンになるのもいいかな、とりあえず…くらいの気持ちで入りました。父さん母さんごめんなさい。」(堀内・談)
しかし、中途半端な気持ちで入ったものの、学校は休みがち。バイトに明け暮れていた。このころから始めたバイトは羽田空港や大井競馬場の警備員。
1990年
(平成2年)
21歳 東京観光専門学校卒業。
休みがちだったため、本来は卒業も難しかったが、最後の10日間だけ無遅刻・無欠席で授業に出たら、卒業させてやる。という温情措置でなんとか卒業を果たす。
「もちろん、就職なんか無理。入りたい会社もなくて…。あ、はとバスには入りたかったな。でも男は採用してなかった。はとバスって、そんな事も知らなかったんだから、ひどいですね。」(堀内・談)
在学中からのバイトは日雇いの肉体労働からバレンタインのチョコレート販売、居酒屋、ガードマンなど短期のバイトを数限りなくこなしていく。
渋谷の東横のれん街でバイト。準社員となる。
洋菓子店で販売のほか、クッキーを焼いたりもする。
「ホントのこというと、彼女が欲しくてこういう仕事にしました。ところが、店にいるのはパートのおばちゃんばっか。しょっちゅう遅刻して、店長に起こられてばっかりで。ダンボール箱投げつけられたこともあります。(堀内・談)
念願のひとり暮らしスタート。
東横のれん街でのバイトを始めると同時、念願だったひとり暮らしを始める。杉並区阿佐谷の木造アパート、四畳半トイレ共同、家賃3万弱、隣では中東から来たと思われる外国人労働者が5人で共同生活を送っていた。将来に対する不安が押し寄せたのはこのころだった。
「ずっとお笑いの仕事をやりたいって思いつづけてたけど、まだなにもしてなかったわけで。それなのに20歳過ぎちゃって。待っていればチャンスがやってくると思っていたけれど、もしかしたら何もないまま終わっちゃうな、自分から動かなきゃダメだって、やっと思い始めました。」(堀内・談)
渡辺プロオーディションに合格。
オーディション雑誌を買って「どこでもいいから」とあちこちのプロダクションを受けるうち、合格したのが渡辺プロダクション。
「このときのオーディションで一緒だったのが、泰造。オレはひとりコントをやったんだけど、泰造は地元の友達とコンビ組んで来てました。(パープルパープル)泰造の第一印象は「声がデカイ」」(堀内・談)
1991年
(平成3年)
22歳 原田泰造とお笑いコンビ「フローレンス」結成。
一緒にオーディションを受けた友達とコンビでライブ活動を続けていた原田泰造だったが、この年、相方が辞めてしまう。
「じゃぁ、一緒に組もうぜ。ってことになりました。フローレンスってコンビ名をつけたのは泰造。東村山にある、ラブホテルの名前。」(堀内・談)
ライブ活動をしつつも、それだけでは食べてはいけず、またまたバイトに明け暮れる。スーパー、新幹線の社内販売、警備員など、その職種は10種以上。
「とにかくお金がなくて、ギャンブルで借金作っちゃって。これはもう生活できないっていうんで、阿佐谷のアパートを出て、横須賀の実家に戻りました。」(堀内・談)
横須賀から事務所へ、そして泰造が住む小平のアパートへと通う日々。(時々、泰造も横須賀に来た)
「泰造は小平のせっま〜いアパートにひとりで暮らしてた。ふとんの下が湿気でビチョビチョになっていたのを覚えています。」(堀内・談)
1992年
(平成4年)
23歳 フローレンスとして、ライブをこなしつつ、日夜練習に励む日々。
「初めてお笑いライブで優勝した日は、よく覚えてる。帰り道の新宿中央公園を2人でうきうきしながら歩いたっけー。」(堀内・談)
フローレンス、テレビ朝日系の深夜生番組「M10」にて初のテレビ出演。
「すごくウケたんで、嬉しかった…けど、それ以上に緊張したぁ。」(堀内・談)
1993年
(平成5年)
24歳 名倉潤が加わり、ネプチューン誕生。
それまで、名倉は堀内健&泰造にとって先輩であり、別のコンビを組んでいた。だが、名倉のコンビが解散となり、お互いに転機が訪れる。
「コンビに限界を感じていたのは、泰造の方だった。オレ達、2人ともボケだよな。やっぱりツッコミがいなきゃ、だめだよ。って。ちょうど名倉君のコンビが解散になって、一緒にやるなら、彼しかいない!って泰造が力説して。名倉君を口説いたの。」(堀内・談)
グループ名を決める事になって、なんか、壮大な名前がいいなって。ギリシャ神話の神様だか獣だかの「ゲリマンダー」、海の神様の名前の「ネプチューン」、もうひとつは「アンカーズ」の3つを候補に。でも全然決まらなくて、じゃぁ、3人がそれぞれの名前を持ってじゃんけんして、勝ったヤツの名前にしようって事になって。そしたら、「ゲリマンダー」のオレが勝っちゃって。じゃぁ「ゲリマンダー」にしようってことになったら、今度はスタッフとかに反対されて。それで結局、第二候補の「ネプチューン」に」(堀内・談)
ネプチューンとしてライブ活動がますます活発に。
世の中のお笑いファンに「今熱いのはネプチューン」と話題になり始め、テレビ出演も少しずつ増えていく。
1995年
(平成7年)
26歳 タモリのスーパーボキャブラ天国に出演。ブレイクを果たす。
「ライブを続けるうち、フラッシュとか色々な雑誌に取材されるようになっていき、そして、始まったのがボキャブラ。元々ランキングとか大好きだったから、絶対ボキャブラ出ようぜ。ってことになって。そしてついに出演できたら…いきなり1位。すっごく嬉しかった。それから営業とか増えていって。テレビの力ってホントにすごいなって、実感しました。」(堀内・談)
このころ、ボキャブラネタを考えるのは主に堀内の役目。そのネタを3人で練り上げるのが当時のパターン。今でも記憶に残っているボキャブラネタは、「名倉君、迷惑だ。→名倉君、メスらくだ」「あと3日の命です。→アトミックパンチです。」
「売れてきて嬉しかった事は、今までの借金を全部返せた事。きれいさっぱりなくなった時は、ホントにうれしかったぁ!」(堀内・談)
1996年
(平成8年)
27歳 初めての冠番組「ネプチューンのモビーにくびったけ」始まる。
「冠番組を持つのは、やっぱり夢でしたね。これ以降、「ネプやり」「空飛ぶ!ネプTビビ」「恋のチューンネップ」「ネプフジ」「ネプいっ!」「おネプ」と続くんだけど、初めての冠番組は…感動でした。」(堀内・談)
当時出たかった番組は、「笑っていいとも」のテレフォンショッキング、「みなさんのおかげでした」の食わず嫌い王、「タモリ倶楽部」「さんまのまんま」「夜もヒッパレ」などがあったが、次々と出演を果たし、夢をかなえていく。
売れてきた喜びよりも、ある種の戸惑いを感じるようになったのも、このころ。
「いろいろな番組に出るようになると、正直言ってなんでこんなことをするんだろう。っておもうようなことをしなきゃならないことも増えてきて、お笑いがやりたかったはずなのに、なんかのレポーターをやってたり、トーク番組に出て何を話していいのかわからなかったり。あー売れてきたぞ、やったぁ。っていうより、どうしたらいいのか、わからないことも多かったです。」(堀内・談)
トーク番組への出演が増え、3人のまとまりのなさも気になっていた。
「そんなときでした。番組で一緒だったヒロミさんに相談したのは。ボク達、3人ばらばらで、まとまりがないんですよ。もっとまとまった方が良いんでしょうか。って。そしたら、ヒロミさんがいいんだよ。おまえ達はばらばらで。それがネプチューンなんだから。って言ってくれて。3人とも、感激しました。」(堀内・談)
1999年
(平成11年)
30歳 笑う犬の生活 始まる。
緊張したのはウッチャンとの共演だった。
「やるならやらねば。とかリアルタイムで見てたからその人と一緒に番組をするなんて。って緊張しました。」(堀内・談)
2001年
(平成13年)
32歳 テレビの仕事で初めてラスベガスへ。
「生まれて初めての海外は、28歳の時のサイパン旅行。このときのラスベガスは仕事だったんですけど、すっごく楽しくて。今度は絶対、プライベートで行くぞぉ!って決心した。」(堀内・談)
正月、ラスベガスに行くプランを立て、出発当日、成田空港カウンターでパスポートの期限切れが発覚。とぼとぼと一人家路につき、「続々、海外に出発する芸能人に直撃!」というワイドショーで同行の名倉潤やTIMが撮られているのを寂しく家で見ていたのは、それから1年後のことだった。
2002年
(平成14年)
33歳 処女本「堀内健康白書」の発売決定。
「考えてみれば、ボキャブラやってたときと、気持ちの上はあまり変わらない。30歳過ぎたけど、結婚もあまり考えないし…。あと5年後はどうなっているんだろう?」(堀内・談)

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