レベッカ宮本先生の日本史授業ver2.1

 1時間目

キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン

「それじゃー、本格的に授業に入るぞー。

1時間目では『幕末』についてやっていくからなー。」

「ねえ、ベッキー。なんで、最初の一時間目からやるところが『幕末』なの?

普通、日本史というと縄文時代から始めるものじゃないの?

「あーそれはだな。一言で言うと、怠いから。縄文からやってめんどくさいだろ?

それに本家の方でも仰っているように歴史で最重要なのは近代史、日本の場合は幕末以降だからだな。

もちろん古代・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・安土桃山・江戸といった時代も大事といえば大事だけど、

日本史で最重要視するのはやっぱり幕末以降の近代史。」

「でも、ベッキー。学校だと幕末以降って、大概2学期も終わりの11月前後だし、20世紀にはいるのなんて3学期以降にじゃない。

特に昭和に入ってからの日本史を学校でろくに勉強した覚えなんてないぞー。

「おお、くるみちゃんが出てきてる!」

「おまえは言うところがそこなのか?」

「あー、なんで昭和史以降はろくに勉強しないのかっていうと、そういう風に学校のカリキュラムで作られてるせいなんだよ。

だいたい言わせてもらうとだな。

最初から最後まで歴史の中身の重要度を考えないで、まんべんなく一通り終わらせるなんて馬鹿の極みなんだよ。

無理矢理にでも日本史を一通り終わらせようなんてしたら、学校の授業方式だと一年で全てを教えきれるわけがないんだよ

だいたい日本史の授業はどこの中学校だろうと高校だろうと一週間に多くても4時間ぐらいだろ?

そんな短時間では日本史を一通り終わらせるには最低でも二年は必要だって。まったく、全然駄目だねぜんぜん分かってないよ、上の連中は。日○組のキチガ○連中とか売国奴共が近代史以降になるとやたらに五月蠅くなるから教師は文字の羅列で終わらせようとするし。そのために近代以降の重要なところはろくに勉強することがなくなるし。だからどいつもこいつもどうでもいいような弥生時代とかの遺跡は知っていても、知るべき近代の事件や人名とかを全然知らなかったりするんだよ。まったく、こんな変な現状をどうにかしろよな文部科学省のあんぽんたん共め!この税金泥棒のオフェラ豚め、お前等なんかコミケでトイレの前にすし詰めになって座ってトイレへの道を遮る他人の迷惑を考えない連中以下だああああああああああああああ

「ベッキー、授業始まっていきなり暴走しないでよ。それと質問なんですけど、日教○ってなに?」

「あー、日教○か。分かりやすく例えるならシ○ッカーだな。

それ以上は言わないぞ。何されるか分かったもんじゃないから。」

「おおおお、ショ○カーって事はやっぱり改造人間を作ってたりしてるのカナ。」

「いや、ショ○カーは単なる例えだぞ。あーでも『改造』人間を作ったりはしているよな確かに。」

「ならショ○カーでファイナルアンサーだね。」

「待ってください。宮本先生。日教○は、ショ○カーと言うよりむしろ、

死ね死○団』とか『G○D -Goverment of the Darkness-』ではないでしょうか。

キーワードは、日本滅亡つながりで。」

「なるほど、ショッ○ーにとって日本は世界征服の過程にすぎなかったけど、

死ね死ね○とかG○Dにとっては日本滅亡が最終目的だったからな。

そう考えると死○死ね団とかG○Dの方があってるかもな。」

「ねえ、私、例えに死ね○ね団とかG○Dとか言われても分からないんだけど・・・・。」

「そんなんだから、おまえは地味なんだよ。」

「地味って言うなぁ!」

「まーとにかく、『レベッカ宮本先生の日本史授業』の1時間目を今度こそはじめるぞー。

1時間目は日本史で最も大事な時代の一つの『幕末』をやっていくからな。

幕末というのは本来なら1800年代中頃から1945年ぐらいまで続いているとも言えるんだけれど、

ここでは便宜上、ペリー来航の1853年前後から1868年戊辰戦争終結ぐらいまでと思ってくれ。

んじゃいきなりだけど脱線して19世紀の世界のについて軽くほんのさわりだけ言っておくぞ。

じゃないと何で日本が開国にいたったのかを説明できないからな。」

「幕末の定義が便宜上っていうか、教科書まんまなんだな。」

「うるさいなーっ。だって、なんだかんだで教科書の区分だとやりやすいんだよ。何か文句あるか?

で、19世紀当時、欧州では『産業革命』がおこって、それまでに比べて商品が安価で大量生産できるようになったんだ。

そこで欧州各国は、商品を売りつける市場、それと同時に原料供給地としてもアジアやアフリカを求めていくんだ。」

「このころから植民地が形成されていったんですね。」

「んー、ちょっと違うな。植民地自体はもっと昔からあったんだ。

16世紀の大航海時代ぐらいからな。詳しくは、「大航海時代」とか「大航海時代online」でもやれ。

さらに詳しく知りたければ自分で調べてくれ。」

「ベッキー、丸投げしたね?」

「いーんだよ。何でも他人を頼ろうとせず、自分で知ろうとする精神は大事なんだぞ?

んで、ヨーロッパとしては市場兼原料供給地とした国が政情不安定だったり治安が良くなかったりするのはよろしくなかったんだ。

だから自国の軍隊を派遣し、武力でその地域の政府をたたきのめし、一部領域なり、その国全土を武力制圧したんだ。

制圧されたところを「植民地」っていうんだ。細かく指摘していくときりがないから、一般的には植民地はそんなもんだと認識してくれればいいぞ。

まあ、こういうのを繰り返していくとアジア・アフリカのほとんどがヨーロッパの植民地になりましたな世界になるわけだ。

視覚的に訴えるとこんな感じだな。」

「あれ?ベッキー、南米とかは白いところが多いけどなんで?1」

「ああ、南米は元はスペインの植民地だったんだけどこのころになると独立したんだ。

その上、モンロー主義のアメリカの勢力圏になるので、下手に手を出すことはアメリカとの対立を意味したので、

それだったら手つかずの勢力圏がやまほど残っているアジアやらアフリカに手を出す方が得だからな。

この地図はあくまで簡略的にペリー来航前後の世界情勢を表わしたモノだから、植民地が全部でているワケじゃないんだぞ。

まあ、そんなわけでアジア・アフリカは植民地とわずかな独立国のみって状態になるんだ。」

「なあ、ベッキー。この画像の下の方に顔半分になってる人、微妙に落書きされてないか?

これはどっから持ってきたんだ?」

「あー・・・・この画像の出所は、書いている人間が高校時代に日本史の授業で使ってた資料集からだな。

落書きされてるのはペリー提督。一応、スキャンするときには落書きが一番ないやつを選んだんだけどな・・・・。あんま気にするな。」

「なるほど教科書への落書きは中高生の本能ですからね。」

「そうなのか?」

「違うんですか?」

「教科書に落書きするのは一般常識だろ?この話題はここまでな。続けると授業が後れそうだしな。

で、今も言ったようにアジア・アフリカが植民地にされている一方で、日本はどうだったかというと、

結論から言うと、ダラダラとぬるま湯生活を送ってたんだ。」

「なんだよ、ぬるま湯生活って・・・・。」

「言い換えるなら『日々平穏』ってやつだな。まあ、時期によっては飢饉&餓死者続発してたけど基本的には日々平穏だったんだ。」

「じゃあ、『日々平穏』であれた理由はなんなのよ?」

「一言で言うなら、ヨーロッパとの距離が遠かったからだな。ヨーロッパから見ると日本は地球の裏側だからな。

いけない距離ではないけれど、軍事力等で制圧するだけの大軍をおくるには遠すぎたんだ。距離は最大の防衛線ってな。」

「それだけなのカナ?」

「後は、日本の隣には清っていう日本よりよっぽど魅力(市場と資源)的な国があったからだな。

ヨーロッパから見ると距離的は似たような感じだけど、こっちはその距離を乗り越えて行くだけの価値(市場と資源)が合ったんだ。

だから日本なんかに目を向ける暇があったら、清にかじりついていた方がよったんだよ。

同時に、清は清以東を容易にヨーロッパにさらさせない防波堤にもなってたんだ。清の軍事力は強大だと思われてたからな。」

「まとめると、日本の平穏は距離と隣に清があったという2点から保たれてたわけか

今も昔も日本の平穏は他人の要因が大きかったんだな。」

「悲しいけどそういうことだな。でも、んな他者に依存している平穏なんて簡単に崩れたけど。

18世紀期から19世紀初頭にかけてのヨーロッパでの航海技術が発展と

アジア各国を植民地化が進むことでの中継地点の確保とかその他諸々の要素がまざって、

日本近海にもヨーロッパの船がそれまでに比べて遙かに容易に出張ってこれようになる。

主にやってきた国は、イギリス・ロシア・アメリカとかがだな。オランダもいるけど、オランダとは元々貿易してたから含めないでおくぞ。

つまりここで、日本の平穏を保っていた二本柱の一つの『距離』が意味をなさなくなったわけだな。」

「もう一本の方はどうなったのよ?」

「もう一本の方、つまり清だな。端的に言うと、アヘン戦争(1840-1842)で清がイギリスにズタぼろに負けたことで、

極東における欧州の軍事的優位が明確化して、日本の対欧の防波堤となっていた清の軍事的権威が消滅したんだ。

清の敗北を聞いた幕府閣僚や先進的な大名達の驚きはそれは大変なものだったんだ。、」

「驚いた余り

ぶっちゃけ、ありえな〜〜〜〜い

って叫んだんですよ。」

「え?マジ?マジなのかな。一条さん??」

「叫んでネーヨ。嘘言うなよな、一条。それに姫子も簡単に信じるなよ。黒と白のは嘘だからな。

驚いたっていうのだけは事実だけどな。それも尋常な驚きじゃないぞ。1825年にだした、『異国船打払令』という

日本に近づく外国船はかたっぱしからサーチアンドデストロイ(見敵必殺)でガンガン大砲をぶっ放して撃退しろってのがあったんだけど、

アヘン戦争後、即幕府は、『天保の薪水給与令』という命令をだして、漂着した外国船には水・食料・薪を与えるようにしたんだ。」

「かみ砕いて言うと、外国船に対して、

全砲門一斉射撃、敵を一遍たりともこの海に残すな!

だったのが

いらっしゃいませ、お客様。

ただいま水を頼まれますとセットで食料と薪も付いておりまして大変お得ですがいかがいたしますか?

って変ったようなものね。」

「さて、そんなわけで、幕府首脳部は焦ったりあわてたりしてるものの幕府はろくな対策を立てられていなかった。

そんなところに1853年のある日、、

米国のペリー東洋艦隊司令官率いる4隻の艦隊が浦賀に襲来してくるんだ。」

「『カイコクシテェクダァサ〜〜〜イ』の奴だね!」

「おまえの中でのペリーはそれなのか。」

「間違ってはいないと思いますが?」

「間違ってはいなくても、認識のベクトルがどうみても違う方じゃない!」

「おまえ達、馬鹿やってないで授業を聞けよ。黒船が来航すると、これによって日本は上も下も騒然とするんだ。

何で騒然したかというと、

庶民は今まで見たこともないでかい船がやってきたことに驚き、ついでに帆を張らないで走っていることにデカルチャーだったんだ。

その一方で知識人や幕府や諸藩の首脳部はというと、こういった事態をある程度予期していたことや

外国船が日本近海に既にもう出没していたなどの情報は得ていたので、来たこと自体にはそれほどショックを受けなかった。

彼らが問題としたのは、ペリー来航はアヘン戦争の再現になるのではないかという点な。

こういった点で、認識的な違いはあれど日本に衝撃が走ったんだ。んで、有名な「太平の眠り〜」うんぬんの川柳ができてくるわけな。」

 

普通の人たちは大きな船に驚いて

偉い人たちは日本でもアヘン戦争みたいな侵略戦争が起こされそうな時がやってきたことに驚いたってこと?」

 

「そんなところかな。けど、まとめ方も何か地味だな、くるみは。まあいいけど。

んでペリー達と幕府役人は交渉を始めるんだ。

 

日本側は『うちと、交渉したかったらちゃんと手順を踏めよ、この毛唐

我が国の公式な外国との交渉場は長崎なんだよ?

礼式も守らず、ひとんちに土足でズカズカとあがってくるなんて君たちはよほどDQNなお国柄なようで

 

ペリー達は『五月蠅さいんだよ、この蛮族が。そうやって手順踏んだところで、らちがあかねぇからこんな処まで出張ってるんじゃねぇか。

とにかく木っ端役人じゃなくて、皇帝(将軍)をだせよ、皇帝(将軍)を。皇帝(将軍)と直に会見させろや。Are you OK?

 

という内容の会談をもっと穏やかな表現を使いながらしたんだけど、双方の主張は平行線だったんだ。

そんな中で、時の将軍徳川家慶が病死する。とにかく時間が稼ぎたかった幕府はこれをネタに一旦ペリーを引かせるんだ。

しかし、時間を稼いだモノの幕府は良い案が思い浮かばなかった。

そこで時の老中・・・老中というのは今で言う大臣みたいなものな。

で、時の老中の阿部正弘は、今までは幕府が独断で外交問題をドンドン決めていたのを変更し、

朝廷や諸藩にも意見を聞いて、何か名案がないか広く意見を求めたんだ。

これは出したときには名案に思われるんだけど、後に幕府を追いつめることになったんだ。」

「ベッキー、朝廷って何?」

天皇家とノータリンな公家達のこと。」

「そういう発言をしちゃっていいのか?」

「あんまり良くないけど、実際そんなものなのだよ。

まあ、とりあえずはそんな認識でいいから。

そんな朝廷や諸藩に意見を聞いたりしつつ、

どうしますかにょ〜?』と幕府内で開国するか、しないかを激論していると一年はあっという間に過ぎたんだ。

そうすると再びペリーが黒船の数を増やして再び来襲してくるわけだな。」

「どの程度、増えたの?」

「今度は黒船の数が3隻増えて7隻で、江戸近くまで進撃してきたんだ。」

「そして言い逃れることも出来ず、

アメリカ艦隊に屈し1642年以来の鎖国政策をといたわけだな。」

「そういうこと。

条約名は日米和親条約。

条約の内容は、日本は亜米利加を『片務的最恵国待遇』にする事になった。

これだけは覚えておいてくれ。あとは知らんでもいいや。」

「ベッキーベッキー、『片務的最恵国待遇』ってなあに?」

「言うと思ったよ。

片務的最恵国待遇というのは、日本が仮にアメリカ以外の国とも条約を結んだ際に、

その条約内でアメリカより優遇されている条件があった場合、

自動的にアメリカにもその優遇された条件がなされるということだ。

そしてそれが片務的、つまりアメリカにだけ一方的に適用され、

日本には当てはまる事がないという不平等さがあったんだ。」

「つまりアメリカが優遇されるって事だね。」

「うん、そういうことだ。

それで、アメリカと日米和親条約が結ばれると、その他の欧州の列強ロシア・イギリス・オランダもこぞって同じ条約を求めてきて、

幕府は断ることができなかっため、他の列強とも同様の和親条約を結ぶことになるんだ。

さて、国が220年ぶりぐらいに開かれた徳川政権下の日本なんだけど、この時点ではまだ後に見られるような

毛唐(・∀・)ハケーン→撲った切れ撲った切れあひゃひゃひゃ(゚∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャ

という攘夷運動は、展開されてはいないんだよ。」

「なんで?

外国人が入ってくると言うことは神州が汚される』ってことで攘夷運動は展開されたんだろ?」

「それはそうなんだが、攘夷運動はもうちょっと後から展開されるんだよ。

まあ、ちょっとまって。すぐ話題になるから。

さて、日本に無理矢理、和親条約を結ばせたアメリカだけど、まだ満足してはいないんだ。

和親条約では『自由貿易は禁止だったからなんだ。

和親条約の調印の目的は、

捕鯨船や中国への貿易船の水・食料・燃料の補給拠点として日本を求めただけなので、商売相手ではなかったんだ。」

「でも、それだけですまなかったと。」

「その通り。せっかくなんだから貿易して儲けようと考えたアメリカさんは、

ちょっと前までのカイコクゥ〜シテ、クゥ〜ダサ〜イから

ボウエキィ、シマショーゥヨォ〜に変わるんだ。

これを1856年に下田の米国総領事のハリスが公式に要求するんだ。

だけれど、これは却下される。

幕閣は米国やその他列強との国力差などを考えて、やむえずと妥協し調印しようとするんだ。

ところが、そこで外野からSTOPが入ったんだ。

STOPをいれたのは当時の天皇の孝明天皇

それまで一切の政治的発言を徳川幕府の前期からずっと禁じられてきた天皇家なんだけど、

1853年に老中阿部正弘が諸藩や朝廷にも意見を求めたことで、急速に政治的発言力を増していたんだ。

『天皇』がNOの為に勅許が降りず、ハリスが要求した通商条約は一度は却下されたんだ。」

「ベッキー、『勅許』って何?」

勅許というのは、天皇の許可だと思ってくれ。

実権はともかく名目上は、徳川幕府は天皇から日本統治の代行権を与えられているのにすぎないので、

このような外交的な事には天皇の許可を仰ぎ、天皇に命令を出してもらう必要があったんだよ。

それまでは、天皇は徳川の操り人形のYESマンだったので、常に幕府の意向にそった勅許勅令などが出せたんだ。

しかし、上記に記したとおり、天皇と幕府のパワーバランスが微妙に天皇に傾いてきたので、

天皇が幕府の意向に拒否を示せるようになってきたんだ。」

「あーベッキー、私もしつも〜ん。さっきから思ってたんだけれど『総領事』ってなにカナ?」

「姫子・・・それぐらい一般常識で知っておけよ・・・。

いいか、総領事というのは大使とか公使とかと同じだよ。

一国を代表して他国に赴いて、その国での出来事を本国にいち早く伝えたり、

外交問題を処理したりな。詳しくは違うんだけど、認識としてはそんなもんだ。

ちゃんと知りたければ自分で調べろ。」

「そーなんだー。」

「さて、ハリスが要求した通商条約は天皇のうんと言わなかったので却下され、

幕府の意向が退けられ幕府権威がちょっと下がり、対して朝廷の権威は上がった、そんなお年の1856〜1858年。

そのころ幕府首脳部は二つの派閥に別れて激論してるんだ。

これを『将軍継嗣問題』というんだ。

当時の第13代将軍徳川家定は体も頭も弱く今にも死にそうな上に、

子供がいなかったので、跡継ぎ問題は幕府にとってはいつも以上の死活問題だった。

そのために将軍の後継者争いは激化して当然なんだ。

下の図のように幕閣諸侯は二派に別れてるんだ。」

派閥名

南紀派

一橋派

何を重視するか

血統

才能

推薦後継

徳川慶福

徳川慶喜

政治方針

幕府独裁を根本においた保守派

雄藩連合を根本におく革新派

構成メンバー

井伊直弼などの譜代大名中心

徳川斉彬などの雄藩大名ら中心

「これまた手抜きね。」

「ちょっと人様に見せるのは恥ずかしいわね。もう少しこればいいのに」

「それをいうなら、このサイト自体かと。この手抜き具合で、更新頻度の遅さ。まさに『圧倒的』ですよ。」

「うるさあああああああああああい、いいんだよ。分かれば。それと更新頻度の遅さはどうせ誰も見てないからいいんだよ。」

「さしずめ、このサイトは、『糞まずいのにやたらと頑固なオヤジが経営するラーメン屋』ってわけか。」

「玲ちゃーん、意味が分かんないよ。」

「つまり、好きかってやって誰も来ないからさらに好きかってやってるということだ。」

「????よけいに分かんないよ。」

「わからんのならそれはそれでいいぞ。どうせあんまり面白くもない例えだから。」

「そっかー。じゃあ、分かんないままでいいやー。」

「おまえ等、手抜き手抜きうるさいんだよ。書いてる方がこれでも精一杯頑張ってるんだよ!」

「あ、ベッキーが逆ギレした。」

「逆ギレしたベッキーもオメガカワイイかも」

「だからうっせぇぇぇぇー。静かにしろ。人の授業をちゃんと聞けよ!

とにかく、上のように二派に別れて政争を繰り広げていた幕閣諸侯だけど、

1858年に井伊直弼が大老に就任すると南紀派に軍配が上がり、一橋派への大弾圧になったんだ。」

「保守派が勝利したワケね。」

「この政争をしている時に大名や大名の側近でもないのに徳川慶喜の将軍就任を熱望した連中がいるんだ。

そいつらが所謂、尊王攘夷派だな。尊皇攘夷と言うのの説明は少ししたら説明するから、ちょっとまっとけ。

尊王攘夷派は、なんで徳川慶喜を応援したかというと、慶喜はもともと『水戸徳川家』の出身だったから。」

「ね、ベッキー。なんで水戸出身だと尊王攘夷派から支持を得られるの?水戸黄門の子孫だから?」

「そうだよ。といっても、くるみが考えてる様なことでは断じてないぞ。」

「えー水戸黄門って諸国漫遊の人助け以外に何かやったの?」

「いや、諸国漫遊は作り話だからさ、本気にすんなよ。

じゃあ、水戸黄門、正しくは水戸光圀は何を遣ったかというと、大日本史という通史の編纂を藩をあげてやったんだ。

これは、日本の古代からの歴史を書き記した歴史書で貴重かつ膨大な歴史資料なんだ。

もっとも、その分手間もかかって、そのために藩財政を圧迫させてるけどな。

で、古代からの歴史をやっているので『天皇って実はすごくね?』と言うことに気付いたんだ。

そうして尊皇、つまり天皇を偉く思うことが水戸藩の藩風になったんだ。

そしてこの水戸版尊皇攘夷、水戸学というんだけどこれが幕末の頃になると日本のスタンダードな学問の一つになってたんだ。」

「ちょっとまて。幕府は『天皇家は偉い』って学問を許したのか?

自分たちの政権をぐらつかせるだろ、そんなのが広まったら。」

「いや、幕府はそうは考えなかったんだ。

天皇は偉い。ならば天皇から日本の統治権と武権を預かっている幕府も大変偉い。

それこそ他の大名ごときが及ばないほどに。

って解釈したわけだ。つまり、天皇家の地位を上げれば幕府の権威も底上げされると考えたんだ。

そしてその解釈が幕府以外の大名の元でも受け入れられていたんだ。」

「つまり天皇家の権威をあげると相乗効果で幕府の権威も跳ね上がったのね。」

「そ。その尊皇思想に、

外国人がうちんとこに勝手に入り込んでむかつく

という攘夷思想がくっついて、できあがったのが尊皇攘夷思想な。

つまり水戸藩は日本の尊皇思想の本元であり、尊王攘夷派にとっては何かやってくれそうな感じがしまくりだったんだ。

そんなわけで実家が水戸の徳川慶喜は、この時期尊王攘夷派から見るとまぶしく輝いていたんだ。

さらに、徳川慶喜の実父の徳川斉昭は、謀臣藤田東湖とともに尊皇攘夷の発言や策謀をしていて、

世間の尊皇攘夷派の人間からは、『烈公』と称されて尊敬の的だったんだ。

そんな烈公の息子が将軍職に就くことで、烈公が幕府首脳部にたてる。

そうなれば烈公の指揮の下、日本は一致団結して外国勢力をたたき出せるに違いない。

という脳内妄想バリバリ展開から尊王攘夷派は、一橋派として徳川慶喜の将軍就任を熱望したんだ。

しかし、上記してあるように、結局は一橋派は敗れ去ったとさ。」

「それで、一橋派とか尊皇攘夷派はどうなっちゃたのかな?」

「弾圧されまくった。

具体的には、大名クラスには無理矢理隠居させて、

それ以外の連中、主に隠居させられた大名の謀臣とか尊皇攘夷派の急先鋒の連中には、

君ら全員死刑決定ね♪ハイ、ではさようなら♪

と片っ端からぶち殺していったんだ。」

「つまり、有無言わさず死刑にしたんですね。赤軍大粛正みたいなわけですね。」

「いや、赤軍大粛正程過激じゃないぞ。そもそも赤いのと無理に比較しない方がいいぞ。面倒だから。

そもそも、江戸幕府にとって、・・・・・いやちょっとちがう。

南紀派等の保守派は、

 

・将軍後継問題に譜代以外の大名が口を出すことですら前例がなかったのに、

 大名どころかその家来やら浪人ごときが将軍後継問題に口を出すなんてひどくむかついたから。

・さらに、尊王攘夷派なんてのは保守派から見れば現体制に不満を持つたんなる食い詰め浪人の集団にしか見えなかったから。

 

の2点から、一橋派と尊皇攘夷派への弾圧はかなりどぎついものになったんだ。

この井伊直弼主催の一橋派と尊王攘夷派のぶち殺し祭りを世間一般では安政の大獄というんだ。

とりあえずテストにでるかもしれないから覚えておけよー。」

「テストにでるの?」

「でるかもな。

井伊直弼は大老に就任直後に14大将軍を

つまり後継問題を強引に自分等が押し立てている『徳川慶福(14代家茂)』にしたんだ。

これで上記に示したとおり

南紀派vs一橋派の環七ラーメン戦争と大した違いのない将軍継嗣問題に決着が付き、

安政の大獄が始まっていくわけだけど、その一方で井伊直弼は1858年に日米通商修好条約を結ぶんだ。」

「その条約の中身は?」

「前にハリスが要求してきたのと同じようなモノだな。

んで前は結べなかったけれども井伊直弼は結ぶのな。それが日米通商修好条約』。

これを直弼は天皇の勅許無しで、強引にさっさと幕府独断で結んだんだ。

もっとも、大の西洋嫌いの上に、京都から一歩もでたことのない世間知らずの孝明天皇

いちいち伺いを立てていたらとてもとても勅許が降りることはありえないだろうから、十分にベターな選択だったといえるんじゃないか?」

「確か、不平等条約って事でかなり日本は虐められたんだよな?」

「漫画日本の歴史系統などにはそう書かれていたり、授業ではそう教えられているけど、

当時、つまり条約調印当時では少し違うんだよ、まず不平等条約と言われているのは

 

一、関税自主権が無い

 

二、領事裁判権の承認

 

の二点のためなんだ。

関税自主権が無いというのは外国からの輸入品にかかる関税が日本側で決められないことを指し、

領事裁判権の承認というのは、日本に来ている外国人は日本の法ではなく、

外国の法をもって罰するということ。ここまではいいか?」

「ベッキー、関税って何〜?」

「自分で調べれ、寧ろ常識で知っとけ、といいたけど、

この授業は蟹味噌人間でも分かるをモットーにしているんで説明すると、

関税【かんぜい】(名) 貨物を輸入したり輸出したりするときに取り立てる税金

  -三省堂国語辞典第4版-より

ということだ。『関税』の意味は分かったのか、姫子?」

「分かったよーベッキー。」

 

「・・・・ホントかぁ?まあ、いいけどさ。

で、この不平等条約で関税自主権がないので、日本には関税を決めることができなかった。

それなので、日米通商条約を結んだときに一緒に『貿易章程』というものが取り決められれいるんだ。

貿易章程については、貿易にかんする取り決めということな。

この貿易章程中身だけど、基本的に従価税ということが決められたんだ。

 

【従価税】(品物の値段にかかる税金。仮に5%なら100円には5円、100000には5000円となっていく)

 

輸入関税:一部5%・35%、その他は20%

輸出関税:5%

さらに、清を滅ぼした阿片の輸入は全面的に禁止。

と言うことだから、こんときだけは日本にとってそう悪くはなかったな。

これは、清国がアヘン戦争にズタボロに負けた後に決めた天津条約と比べると段違いの好条件だし。」

「実は日本に有利だったって事か?」

「ところがそうもいかない。この日本にとって比較的有利だった貿易章程のおかげで、

日本は近年見ないぐらい輸出超過になった。それこそ国内の必需品の確保すらろくにできないぐらいにな。

物価は大高騰。幕府はこれの対策のために1860年に『五品江戸廻送令』を出して対処しようとする。

ここでいう五品ってのは、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の五点であり、雑穀・水油・蝋は生活必需品でもあった。

これを一旦、江戸に回させようとするんだ。」

「物価高騰と江戸にその五品を回させることに何の関係があるのさ?」

「それはだな、

まず、当時の貿易の体制は開港した横浜・長崎・函館の外人居留地のみで貿易を行っていて、

そのほとんどが横浜で行われていた。で、輸出品は産地から直送で横浜に送られていた。

そんなわけだから、江戸のような巨大な消費都市では物不足が深刻になってたんだ。

そのために一旦、江戸経由にして需要分を確保してから、横浜などに送ろうといとしたのがこの法令な。」

「物価高騰はそれで防げたの?」

「うんにゃ、全く。」

「ほう、それはなんでだ?」

「それは、

1、各商品の生産地の在郷商人の反対

2、列強からの圧力

があったからだな。分かると思うけど、在郷商人としてはせっかく横浜に直販して大もうけでウハウハなのに、

江戸に一旦送ってからだとそれほど儲からないからな。

列強としても江戸の需要分が消費されてから、回されてくるそんな出涸らし茶みたいなのはいらないし、

自分たちの必要な分が量的に確保できるかどうか心配だった。

そういったことから反対多数で、幕府の『江戸五品廻送令』は不徹底に終わるんだ。

これは受験に結構、でるから覚えておけー。」

「これは試験にでるのね。」

「うん、でるな。受験生はしっかり覚えろよー。

それとこの日本にわりと有利だった日米通商修好条約は、

数年後の1866年には状況が変わって、兵庫・大阪の開港、開市の延期の代償として

改税約書というのが結ばれて、不利なモノになるんだ。

条約の不利さとしては清国同様のな。

軽く言うと、改税約書前は従価税だった関税が、改税約書後は従量税となるんだ。

これは品物の重さにかかる税金で、

仮に100g100円のAと言う商品があり5円の税金がかかるとする。

100g10000円のBと言う商品もあるとして、従価税ならBの値段の何%かが税金になるけど、

従量税の場合、これもA同様に100gだから、5円しか関税がかけられないんだ

結果、関税収入がろくに見込まれなくなったわけ。

こうして、日本は金と法の面で束縛されつつ、涙ながら不平等条約を結わけだな。

そんで、日米通商修好条約を結んだ一ヶ月後に、

蘭・露・英とそのさらに二ヶ月後に仏と、日米通商修好条約と同内容の条約を結び、

これらを併せて安政五カ国条約というんだ。入試にでるから受験生は覚えとけよ。」

「この辺は受験にでるんだ!」

「いや、出そうだな〜って程度だけどな。

それと、この条約、安政の5カ国条約を締結以降日本はそれまで久しく関係が絶えていた他国との市場経済の海に

どっぷり浸かることとなり、さっきも言ったけど輸出超過からの品物不足とそれに伴う物価高になるのな。

このため一般市民(この場合は中堅以下の武士+農民+町人)生活が苦しくなり、

『生活が苦しいのは黒船の武力で脅してきた外国のせいだ。』となり、

外国人に対する憎悪が高まり、攘夷運動が全国普及し過激な攘夷行動になったんだ。

攘夷運動はこのころから過激の一途をたどっていて、主な例では、1862年の品川英国公使館焼き討ちとかだな。」

「焼き討ちとは無駄に、派手だね。でも、英国に手をだして大丈夫だったの?

英国に手をだすとヘルシング機関やら大英図書館特殊工作部からの仕返しのエージェントが!」

「こねぇよ、オメガ馬鹿。」

「そ、そんな・・・・ヘルシング機関も大英図書館特殊工作部もないイギリスに価値なんて・・・・orz」

「それはおまえだけだ。姫子。マスターキートンでも読み直せ。もしくは医者に行け。

さっきまでのをまとめると、

井伊直弼は天皇の勅許無しでアメリカとの条約に調印をし、

同時に一橋派及び尊皇攘夷派への大弾圧をし、幕府独裁体制の再構築を行っていく。

そのために水戸藩を初めとした尊皇攘夷派から憎悪を受けることとなる。」

「そうなんども言われなくても分かるよベッキィ〜。」

「おまえが一番心配なんだよ、姫子。ホントに分かってるのかぁ。

まあ、いいか。近年まれに見るリーダーシップで幕政をドンドン進めいてた井伊直弼だったけど、

1860年の3月に、水戸脱藩浪士と薩摩脱藩浪士に江戸城の真ん前で襲撃されて殺されるんだ。」

「『桜田門外の変』ね。」

「大老井伊が暗殺されること幕府権威が大暴落。ここで幕府の命運はつきたと言っちゃてもいいんだ

彼ら、浪士達が井伊を殺したの理由は簡単で、水戸系の奴らは、

1、烈公が井伊がために隠居させられた→怨恨

2、井伊は天皇に無断で、外国と条約を結んで外人を日本に入れた憎むべき奴だった→やっぱり怨恨

ということで怨恨なんだ。薩摩も同じような感じだな。」

「井伊直弼が殺された後はどうなるのカナ?」

「井伊が殺された後、幕府首脳部は、『天皇』という存在を無視できなくなったんだ。

無視すると井伊のように『KILL!YOU!!KILL!YOU!!KILL!YOU!!!

と目の濁った連中が井伊を殺したように、自分を殺しにくるからな。」

「ここでも幕府はびびるわけか。

しかし、この場合は、外圧ではなく、間接的ながらテロリズムに屈したわけだからよけいに政府としての屋台骨が揺らぐんじゃないか?」

「その通り。このあと幕府は、加速的に屋台骨が揺らいでいくんだ。

これで、幕府としてはちょいと困るんだ。今までの様に、天皇を無視して幕府独断政治を行えば、

目の濁った連中が斬りに来る。かといって、政治主導権を手放すのはもってのほかだしな。」

「まあ、そうだろうな。」

「幕府は今度は、老中安藤信正を中心に動き始めるんだ。

今度の方針は、井伊の幕府独裁と正反対といえる『公武合体』という朝廷との融和策にでたんだ。

公武合体』とは『公=朝廷』と『武=幕府』が文字道理『合体』する事。

つまり朝廷と幕府の綿密な繋がりを強調することで、尊攘派浪士の矛先をかわそうとするんだ。」

「テロリスト達が持ち上げようとしている勢力とくっついて、テロリストたちを空回りさせようとしたわけか。」

「一方で、朝廷としては

『幕府と姻戚関係ネー、べーつに結んでも良いけどサー、どうせなら渋りまくってから条件に攘夷の即時決行をつければ、

我が神州からけがわらしい毛唐共を追い出せますにょ。これは名案ですにょ♪』

という事だったんだ。」

「つまり、幕府側としては

攘夷志士からの攻撃をかわす為と幕威の回復のため、

朝廷としては

攘夷を決行させ外人を追い出すため、

という目的で結ばれた政略結婚を『公武合体』とカッコつけたのね。」

「政略結婚しておいてなんだが、見事に双方の思惑が重なってないな。」

「まあ、そんなもんなんだろ。政略結婚なんてのは。きっと。

そういうわけで、幕府朝廷ともに公武合体を押し進め、孝明天皇の妹和宮(かずのみや)

第14代将軍徳川家茂の元に嫁ぐんだ。これを『和宮降嫁』っていうのな。」

「ちなみに将軍家に嫁いだ和宮は、某中華料理屋に嫁いだ橋○ファミリーの次女の如く姑にいじめられたそうです。」

「へー、そうなんだ。」

「いや、それは嘘だと思うぞ。くるみ。つうか、一条も変なこと言うな!本気にされたら困るだろ。

和宮降嫁が実現してほっと一息をついていた幕府主導者の安藤さんだけど、

1862年の1月、井伊さんと同じように尊皇攘夷派に襲撃されたんだ。

朝廷をかどわかす奸賊を切る、っていうのが尊皇攘夷派の名目な。

で、この安藤さん、斬られてあの世へGOかと思いきや、刀も抜かずに一目散に全速力で逃げだすんだ。

おかげで安藤さんは負傷するけれども助かったんだ。これを『坂下門外の変』っていうんだ。」

「おお、敵前逃亡とは、士道不覚悟で切腹だね!」

「ならねーよ。新撰組じゃないし。でも、当時の幕府首脳部は安藤に対して非同情的だったんだ。

『逃げただけでなく、武士の作法である刀を抜かず一度も刃を交えずに。』

つまりは、腰抜け扱いされて、回りからの好感度が-10000ぐらいになっちゃたんだ。

特に刀を抜かなかったのが致命的だったんだ。これで安藤は老中を首にされ、

公武合体を進めそれを活用しようとしていた当人がいなくなったこともあり、

公武合体を幕府はうまく活かせないで終わるんだ。」

「公武合体という企画の企画者がいなくなり、それを100%活用できる人材が他にいなかったわけか。」

「天空の剣を手に入れておいて、それを装備できなかった某国の国王と同じ状態になったんですね。」

「一条・・・・その例え、さっぱりわからん。というか、そういうよく分からない例えはやめてくれ。

んで、安藤さんが失脚した3ヶ月後の1862年の4月に時は移るぞ。

薩摩藩の藩主の父親、実質的薩摩藩の指導の島津久光が兵隊を引き連れて京都に向かい始めたんだ。

このことを尊皇攘夷派は『いよっしゃああああ、薩摩が尊皇攘夷に動き始めたあああ』と解釈した。

ところが島津久光はそんなつもりはなくて、幕府に幕政改革を訴えて幕府の強化をはかろうとしてたんだ。」

「尊壌派浪士の思惑は完全に外れたワケね。」

「主観が強すぎると物事を客観的に見れなくなるってことさ。おまえ達もきよつけろよー。

もっともそういった夢見がちな人尊壌派たちは、島津久光の傘下の薩摩武士の中にもいた。

それどころか、過激な連中は公武合体派の公卿を斬ろうと画策をしていた。それを知って激怒した久光は、

同じ薩摩藩士それも尊皇攘夷派に、襲撃させ、ジェノサイドしたんだ。これを『寺田屋事件』つーんだ。」

「ハーイ、質問。

いくら上からの命令でも、同じ尊王攘夷派同士が殺し合いをよしとしたのー?」

「ん?まあ、主命だし。武士ってのはそんなもんだ。

今とは価値観が違うんだからあんまり気にするな。

これで久光は自分に逆らう連中を皆殺しにして気分すっきりで、江戸にいくわけだ。

もっとも形式的にはは天皇の勅使のお供という形で、

これのおかげで、隠居した大名が軍勢をつれて江戸に向かっていても幕府は何も言えなかったんだな。

で、その勅使から勅命として幕政改革が示唆されるんだ。

その中身は実際のところは久光が計画したもので、

将軍後継職:一橋慶喜、政治総裁職:松平慶永、京都守護職:松平容保 をそれぞれ就任させること。

参勤交代の緩和。

軍制改革

の3点を訴えたものだったんだ。」

「その三点にはどのような意味合いがあったのですか?」

「つまり、雄藩連合構想を持っている旧一橋派の復権

諸藩への参勤交代の出費を減らさせ、浮いた金での軍拡をさせる。

そして幕府自身の軍制改革と軍拡ってことな。

で、幕府はこの要求を全部呑むんだ。まあ、勅令の形だから他の時代ならいざ知らず、

この頃の幕府では刃向かえるわけ無いけどな。」

「一橋派の復権以外は、要は軍拡ね。」

「かいつまむとそういうことな。

でこれを『文久の改革』といって、受験生は覚えておいた方がいいことだぞ。

それで、自分の要求が通ったので、気分が大変よろしかった島津久光。

朝廷と旧一橋派双方に恩が売れたんだからな。

この後うまくやれば自分が幕政の中心になれるとふんでいたみたいなんだ。

ところが、この後想定外の事態が!」

「分かった、暗殺されるのね?」

「ぜんぜん違う。江戸で('∀`)ウヒッ!ってな気分になった久光は帰国するんだ。もう、江戸に用はないからな。

で、帰りも当然大名行列だ。突然、その中を横切ろうと割って入ってきた連中がでてくるんだ。

当然、日本人なら、んなことをしたら切り捨てられるのは目に見えているから、日本人でなかった。

ここで横切ろうとしたのは、イギリス人だったんだ。」

「ほう、眼鏡魔法少年の国の人ですか」

「ネのつく方なのか、ハがつくほうなのか気になる表現は辞めろよ。

それで、横切った英国人は、久光の命令で薩摩藩士に切り捨てられるんだ。

このことを生麦村と言う村の近辺で起きたので『生麦事件』というんだ。」

「切り捨て御免というわけですか」

「斬った側としては向こうが無礼を働いたから切り捨てるのは武士の権利のつもりだったかもしれないけど、

イギリス人としてはこれは自分たちが進出するこれ以上ないチャンスだったんだ。

この生麦事件が、国際問題に発展すると責任をとらされ久光は、握りかけていた政治主導権を失なって、

さらにイギリスが仕返しに東洋艦隊を派遣してきて戦闘状態になったんだ。これが『薩英戦争』な。

この戦いで薩摩藩の砲台は全て破壊され、鹿児島城下も炎に包まれて、わずかながらあった近代工業設備も炎に消えたんだ。

その一方で、イギリス艦隊もまた、戦争当日が暴風雨であったため艦の舵取りがうまくいかず、

必要以上に陸地に接近してしまい薩摩藩からの砲撃を受けることとなって、

イギリス東洋艦隊の司令長官が、薩摩藩からの砲撃で戦死するという大被害を受けたんだ。

この結果、痛み分けとなり、薩摩は西洋の圧倒的な戦力を肌身で体験して『攘夷(;´д⊂)ムリポ』とわかり、

イギリスと急接近し、軍艦や西洋銃を大量に購入し西洋式軍備を整えていくんだ。」

「わりと物わかりいいんだな、薩摩。」

「というよりリアリストだったんだろうな。

一回、全力で戦ってみてぼっこんぼっこんにやられりゃ方針を180度変えてるわけだし。

そういうわけで島津久光さんは生麦事件のため、政治主導権が握れませんでした。

そのため、幕府は復権した旧一橋派の連中が中心に動かすことになりました、と。

そうして、復権した一橋派だけど、いきなり大変な事態に直面するんだ。

京都の朝廷が

 

『なーなー、いい加減に腐れ毛唐共が神州を歩くのがウザクなってきたでプー。

そろそろあいつ等追い出してくんねぇ?いやなら、いいよ。こっちにも考えがあるから♪』

 

とわがままを言ってきたんだ。これには、幕府は弱った。

断れば、キチガ○じみた連中もとい過激派攘夷浪士が絶対斬りにやってくる

かといって、外国との力の差を考えると100%攘夷なんてできそうにもない

幕府は色々と妥協案をだし、朝廷と交渉を重ねて、

外国から攻撃されたらという条件付きでなら攘夷しますにょ。』と専守防衛を宣言するんだ。」

「外国船は、そんなにやたらめったら攻撃しくるのですか?」

「いや、全然してこないぞ。外国はあくまで『貿易』に来てるんだから、

普通に考えてこっちが何かしない限り攻撃なんてしてくるわけがない。

だから、夷を宣言しても、現実には攘夷はしなくてすむ、と幕府は考えたんだ。

ところが、世の中うまくいかず、後でやるけどこのもくろみは完全に外れたんだ。」

「それはまた何でカナ?」

「長州が相変わらず観念主義で暴走したからな。まあ、あとで言うよ。

んで、その攘夷を宣言するために将軍家茂は京都に行くはめになるんだ。

しかし、そのころの京都は過激な攘夷派志士の連中の本拠地になっていた。

その上、尊壌派が政治主導を握った長州藩が尊壌派浪士希望の食い詰め浪人を養って、

テロってたもんだから治安も馬鹿みたいに悪化してるんだ。

そんな中に行って、『おそれ多くも上様に何かあったら・・・。』と心配したんだ幕閣は。

じゃあ、護衛をつけてけばええやん。と普通は考えるんだが、そこにも問題があったんだ。

将軍を守るべく存在している旗本・御家人連中の大半はだらだらと過ごしていたから、

Vガンの時の連邦軍より使えない存在になり果てていたんだ。」

「Vガンの時の連邦軍というと数はあっても質が全然伴わない上に、やる気すらも薄い連中だな。」

「そう、まさに江戸の旗本達はその状態だったんだ。

こんな連中じゃあ、とてもとても将軍の警護はつとまらない。そこで、幕閣は江戸中の道場に

上様(家茂)が京都に行くんで、腕に覚えがある奴らは護衛で雇ってやるので集合しる|ハ`∀´ノ

という文章を送って護衛を募集したんだ。そうして集まった連中を『浪士組』といったんだ。

この中には、後の新撰組の主要メンバーになる近藤勇達も入っているんだ。」

「旗本・御家人が将軍の護衛につかないで、浪人が護衛につくって・・・・・。

旗本・御家人の存在意義は?」

ない。少なくとも軍事力の面で見たら存在しない

ところが、この『浪士組』にも問題があった。

この浪士組の発案者の『清河八郎』が尊王攘夷派の浪士で、

浪士組を『天皇の先兵』として尊皇攘夷の旗上げに使おうとしていた。そしてこれが幕府に発覚する。

幕府はあわてて京都にこいつ等をおいていては危険と考えて、『浪士組』と清川を江戸に戻すんだ。

ただ、浪士組の一部に将軍警護をやり通すために在京を望む連中が居たんだ。

この残った連中が、後に新撰組になった連中な。」

「えーと、つまり新撰組は最初は将軍の警護だったの?」

「新撰組というか、新撰組ができるきっかけが、将軍の警護とみてくれ。

新撰組は、できてからはひたすら「京都の治安維持」=「尊壌派浪士をぶち殺す」だな。

一応、新撰組も名目は「尊皇攘夷」だからちょっと複雑なんだけど、

ここら辺は本家の言う、「元祖と本家を争うラーメン屋の戦い」だとおもってくれ。」

「つまり、どっちもどっちだったわけだな。」

「まあ、もう少し言うと、新撰組は治安が悪化した京都を多少乱暴だけど治そうとした。

なぜ治安が悪化したかというと、尊皇攘夷を断行するために全国から浪士が集まっており、

その中の3流以下が『ソンノウジョウイのため』と称して商家に押し込み強盗とかをしていたからなんだ。」

「強盗と尊皇攘夷って全く関係ないわよね?」

「関係ないな。でも、それをする馬鹿だから三流以下なんだよ。

そもそもなんで、京都に尊皇攘夷派浪士が集まったかというと、朝廷があったからだな。

朝廷は、幕末までの江戸時代ではたんなる金のかかる飾り物に過ぎなかったワケなんだけど、

ペリーが来航したときに老中の阿部正弘が幕府単独で決めず、朝廷や諸般にも意見を聞いたっていっただろ?

これで朝廷の発言力が増して、幕府に意見を言えるようになったからだな。

同時に、尊壌派が政治主導を握っていた長州藩が京都で尊皇攘夷断行の政治活動を活発に行っていて、

尊壌派浪士達からの支持を取り付ける必要もあって尊壌派浪士達を養っていたんだ。

つまり、尊壌派浪士達は、京都に行けば朝廷を介して政治に口出しができたし、

うまくいけばのし上がるチャンスもあった。しかも、長州藩がむこうでは面倒を見てくれる。

ってなことから砂糖に群がる蟻のごとく尊壌派浪士達は京都に集まっていたんだ。」

「要は、うまい話があるから京都に集まってたのね。」

「一応、本気で尊皇攘夷断行という政治情熱から集まった連中もいたんだぞ。

欲におぼれて集まった奴らも大勢いたけど。」

「ところで、ベッキー、一つ質問していい?」

「なんだ?姫子?」

「京都守護ってなあに?」

「・・・・・・・姫子〜、そういうことはもう少し早く質問しろよ。

いや、説明してなかったこっちも悪いんだけどさ。折角だから、文久の改革の時に設置された、

将軍後見職・政治総裁職・京都守護の三職について説明しておくぞ。

将軍後見職→文字道理、将軍の後見(補佐)をする事。英才として世間の評判だった将軍候補でもあった一橋慶喜が就任。

政治総裁職幕府に老中という正規の権力中枢がある以上、いうなれば形式的存在として作られた名誉があっても実が無い職。松平性を承っていた親藩の中での最上位にして、世間でもっとも英明な大名である4賢侯の1人、松平慶長が就任。

京都守護職→京都所司代ではもはや治安悪化を防ぐのは不可能として新設されたポストで、所司代に比べ権限の強化・組織拡大されており所司代の上位につく存在。将軍の直轄の役職であり、京都における将軍の代理的存在。親藩の中でも随一に武勇に優れると評判だった会津藩主松平容保が就任する。

と言うことなんだよ。わかったか?」

「京都守護は要は、京都守護職のグレードアップ版って事だネ。」

「あー、そんな感じでいいよ。他に質問はないか?」

「だいたいはね。」

「だいたいなのかよ・・・。」

「だって、言ったり来たりしてるじゃない、わかりにくいわよ。」

「分かりにくいか・・・、わかりやすくやってるつもりなんだけどなー。

まあ、おいおい改善されていくだろうから、勘弁してくれ。

ついでだから、この幕末でよくでてくる藩の位置関係を出しておくぞ。

だいたいこんな感じなので知らなかった奴は覚えておくように。」

「あれ、沖縄も黄色く塗られてるけど、沖縄も薩摩藩だったの?」

「違う、沖縄はそのころ琉球王国といって、薩摩藩の属国だったんだ。だから黄色に塗ったんだよ。

ただ、ちょっと複雑で琉球は清の属国でもあったんだ。」

「よく分かんないぞ、ベッキー。」

「そうだな・・・・琉球は、薩摩と清とに三角関係ができてて、

さらに、両方と結婚して、夫の亭主関白に悩まされてる。そう考えてくれ。」

「随分と特殊な関係なんですね。」

「特殊なんだよ。で、さっきも話をしたように薩摩藩は薩英戦争後、攘夷ムリぽ(´д⊂)を実感する。

しかし、その反対に日本全体の攘夷熱は全く冷めていなかった。

寧ろ長州に土佐も加わり過熱化しているんだ。

それこそ長州と土佐の間で、人斬り合戦がおこなわれるぐらいにな。

ところが、ここで運命の転換が起きるんだ。同じ攘夷思想を持っていながら薩摩藩が

佐幕派の会津藩と手を組み長州を京都政界からたたき落とすことにしたんだ。

薩摩と会津は、八月十八日の深夜に急遽佐幕派の公卿を招集し、

全ての御所の門を薩摩・会津の藩兵で固めたんだ。まず長州と朝廷の物理的接点を断つんだ。

さらに、招集した朝議で長州派の公卿が1人もいない状態で長州を御所の門の護衛を首にして、

同時に長州派の公卿も全員京都から追い出して、長州&長州派公卿を朝廷から追い出したんだ。

これを『八月十八日の政変』といって、幕末の転換点の一つなんだよ。」

「ねぇ、ベッキー。なんで同じ思想を持った薩摩が長州を裏切ったの?」

「それは、長州が嫌いだったから。

もう少し言うと、京都において尊皇攘夷の旗頭的に盛り上げられている長州が、

天皇を担ぎ上げて毛利幕府を開くのでは?と言う疑念から薩摩は長州を叩きつぶすことにしたんだ。

ただし、自分たちが矢面に立っては後日に悪影響を及ぼすかもしれない。

そこで、代わりに全面に出す相手として会津を選び手を握ったんだ。

会津の方も長州を叩くのに自分所だけでは不安だったから薩摩の申し出は渡りに船だったんだ。

こうして、攘夷と佐幕という思想的には相反する両者が、対長州という利害の一致から手を組んだんだ。

ただ、一つ補足すると、手を組んだというと双方で示し合わせたように聞こえるけど、

実は企画から締結まで全て薩摩がやり会津は頷いていただけだったんだ。」

「薩摩は、外交というより謀略に長けてたんだな。」

「ベッキー、長州はどうしてたの?

自分たちが担ぎ上げていた朝廷を突如奪われちゃったんでしょ?反撃に移らなかったの?」

「長州としては、反撃に移りたかった。

だけれど、上で言ってある通り、御所の門の全てを会津と薩摩が押さえている上に、

自分達の担ぎ上げてた公卿達も宮中の立ち入りを禁止にされているのから、

接触をして政治的復権はしばらくはかないそうにはなかった

かといって、武力でどうにかしようとしても薩摩・会津連合軍の在京戦力は2000強

対して、自分たちは長州側はせいぜい数百人とどう考えても勝ち目はない上に、

下手に刃向かったら、これ幸いに『朝敵』の汚名を着せられることが確実だったんだ。

こういったことから暴発しても状況がよけいに不利になるだけと判断した、

桂小五郎久坂玄瑞が必死でなだめて、なんとか暴発させずに長州に一端撤退したんだ。」

「戦略的撤退、後に前進、後方に転回、言い分は色々ありますが、要は逃げた、と。」

「そこまであからさまではないんだけどなぁ。まあ、そんなもんかなぁ。

長州が没落すると、長州に次ぐ勢いを見せていた土佐でも攘夷派は落ち目になるんだ。

土佐藩の攘夷派である『土佐勤王党』は佐幕派の藩政府から大弾圧を受けていくんだ。

同じく、長州や土佐などの庇護を受けれなくなった、京都にいた尊壌派浪士達も

新撰組京都見回り組などの幕府側の治安警察に狩られていくんだ。

尊壌派にとっては寒い時代がやってきたわけだな。」

「ワッケイン少佐の言葉だね!寒い時代って。」

「いや、そんなことを突っ込まれても困るわけだが。

尊皇攘夷派としては、幕府側にいいようにやられていくつもりはないので、武装蜂起していくんだ。

天誅組の変・生野の変・天狗党の乱とかがそうだな。

いずれも散発的なのと規模が小規模なこともあり失敗に終わったけどな。

追いつめられた尊皇攘夷派浪士&長州は京都で全ての巻き返しを謀るんだ。」

「なにをやろうとしたの?」

「サイド2の8バンチコロニー「アイランド・イフィッシュ」を地球軌道に乗せて、

地球連邦軍総司令部がおかれたジャブローに落下攻撃しようとしたのです。」

「尊王攘夷派、すごいかも♪」

「一条、大嘘ばかりこくなよ。姫子が信じるだろ。」

「すみません、玲さん。では、姫子さん。本当のことを話します。

本当は、静止衛星軌道上に戦略攻撃衛星カイラスギリーを建造して、衛星軌道からのビーム砲で幕府を脅そうとしたのです。」

「尊王攘夷派、すごすぎるよー。」

「どう見てもそれも大嘘だろ、一条。」

「おや、ばれましたか。」

「ばれるばれない以前の問題だと思うぞ。とにかく尊王攘夷派としては政局をひっくり返したかった。

そこで、京都を全焼させて、その混乱に乗じて、

佐幕派の各大名&公卿をぶち殺して、さらに天皇を長州までテイクアウト計画を構想したんだ。」

「あー、るろ剣にもあった京都焼き討ちのことだね。」

「いや、るろ剣はいいからさ。

長州&尊壌派志士としては再び自分たちの手に天皇を戻すことで、政局の転換を望んだんだ。

で、その辺の計画を立案し実行に移すためのメンバーが京都の池田屋に集まったんだな。

集まったメンバーは尊壌派志士の最精鋭中の最精鋭とも言うべき人材で、

生き残っていれば半分以上は明治政府の高官になったと言われているんだ。」

「そんなご大層な連中がテロリストまがいの計画をしたのか?」

「今の価値観と当時の価値観は違うので、彼らの中には確乎たる信念があったんだよ。

京都を焼いてでも攘夷をあげなければ国家が滅ぶみたいな信念だろうな。

単なる自己陶酔だけどな、こんなの。

それに初期の明治政府の官僚は、テロリスト上がりか雄藩の門閥かのどっちかだから、そんなもんなんだろ。

それで、池田屋に集まっていた謀議していた連中は突如、ある集団に襲撃されます。」

「新撰組の登場ね。」

「面倒だから結果から言うと、新撰組は京都焼き討ちを計画した連中を捕縛するかぶっ殺して名をあげました。

これを池田屋事件(1863年)といいます。受験生は覚えるように。以上。」

「えらい、はしょったなぁ。」

「一々、言ってたら無駄に文が長くなるだけだからな。はしょれるところははしょることにしたんだ。

この新撰組にお仲間がやられて、尊王攘夷派や長州藩の過激派ぶち切れて桂や久坂の歯止めが効かなくなったんだ。

そして、長州は『八月十八日の政変』での没落以後の巻き返しを謀り、藩単位で動き始めたんだ。

これにはいくらか生き残っていた他の尊壌派浪士も最後のチャンスだと思い参加したんだ。

朝廷に嘆願と言う形で長州藩はやってきたんだけど、薩摩・会津連合軍に邪魔をされて朝廷に接触が全然できないんだ。

このため、頭に血が上っていた長州藩は我慢の限界のために暴発し、

無謀にも御所に向けて軍勢をひきいて突入することにしたんだ。

気力が始めから150だった長州軍は一時、御所近辺まで接近したんだけど、

結局は、幕府軍を崩すことができず敗退するんだ。

このことを『禁門の変(蛤御門の変)』(1864年)といい、幕末の転換点の一つなんだ。

これを機に、朝廷に長州は『朝敵』とされて、それを打つという名目で、幕府は後に二回の『長州征討』を行っていくんだ。」

「やったことが裏目に出たんだね。」

「そうだな、さて、禁門の変の一ヶ月後に幕府は、

『先年以来なにかと反抗的な長州がせっかく朝敵になったことだし、

そろそろ叩きつぶさせていただきますかにょ。これでウザイ奴が一つ消えマスにょ。』

と考え、長州征討が朝命と言う形で出されるように細工をし、長州征討が行うんだ。

これには西国30数藩が動員をかけられた大軍となったんだけど、総司令官の任命で行き違いが起きるなど、

ボツボツと幕府滅亡の軋みが見え始めたんだ。」

「追い込まれてた長州はその間何をやっていたの?」

「長州はそのころ幕府の征討軍にかまっていられなかった。

なぜならば、大外戦争の真っ最中だったからな。『下関戦争』ってやつだ。

既に言ったように、相手からの攻撃があった場合でのみの攘夷の宣言を幕府はしたんだ。

その宣言を効くと、長州はすぐさま下関を通っていた外国船に砲撃を始めるんだ。

相手が攻撃した場合のみという条件を無視してな。

当時、上海−横浜間で貿易ルートが確立していたので、

下関は必ず外国商船が多く通る場所だったわけだ。

そこを長州はボカスカと旧式の大砲をうって、撃破したと喜ぶんだ。

ところが翌1864年に禁門の変で長州がズタボロに負けた頃に長州藩の国元では、砲撃されたことのリベンジとしてやってきた

イギリス・フランス・アメリカ・オランダら4カ国の連合艦隊にボロボロにやられてたんだ。」

「そこに幕府の征長軍が向かってきたのか。長州は絶体絶命だな。」

「そういうことだ。長州はこのとき文字通り絶体絶命だったんだ。

しかし、希望の光は長州にはまだあった。その光の一つは、、

藩のロンドン秘密留学生の伊藤俊輔(後の博文)

井上聞多(後の馨)の両名と

長州のリーサルウエポン高杉晋作だ。」

「なんで高杉晋作が長州のリーサルウエポンなの?」

「ん?それは何となくだ。個人的に、そう思ってるだけ。他意はないぞ。

長州は、幕府軍が来るまでは時間があったので先に4カ国連合艦隊と講和しようとする。

この際に長州は、一遍の領土も賠償金も取られずに4カ国連合艦隊と講和に成功するんだ。」

「へっ?なんで?連合艦隊はそういったモノを一切要求しなかったの?」

「したぞ。しまくった。というか、そうでもしないと元を取れないからな。

ところが、それらを一切はね返して、無賠償無割譲で連合艦隊と講和を高杉晋作は結んだ。

この辺が、長州のリーサルウエポンのあたりだな。

ただ、高杉は連合艦隊との交渉の際に

『そもそもうちらは幕府の命令に従っただけなの。だから、賠償請求は幕府にしてくれ』

っていって責任を全部幕府になすりつけてるのな。」

「要は責任転嫁したのか。」

「そうだな。それでも下関戦争はこれで一段落したんだ。

ただ、肝心の幕府による長州征討はまだ何も解決もしていなかったんだ。

この当時、長州藩政府内部では攘夷派が禁門の変以降転落し、佐幕派の連中が政権を握ってたんだ。

それで、彼ら佐幕派にとって幕府に逆らうなんてありえなかったので、一番安易で効果的な方法をとるんだ。

それは-----」

蜥蜴の尻尾切りか。」

「先に言うなよ。そうなんだけどさ。

佐幕派は、これまでの反幕府的行為の責任を全て尊壌派に押しつけるんだ

手始めに、禁門の変の際に出陣した藩兵の中で最高位であった3人の国家老達をまず全員切腹にし、

それを発端に佐幕派は、徹底的に藩のめぼしい尊皇攘夷派を弾圧していくんだ。

そして、幕府に対しては絶対恭順を示すんだ。」

「自分たちの政敵を生け贄にしつつ、幕府には尾っぽを振って媚びたわけか。」

「そっだな。そんなわけで、媚びまくってきた長州を見た征討軍上層部は

『長州も反省しているみたいだし、この辺で勘弁しておかん?だいたい、戦火を開いたらさらに金かかるし。

要は長州が二度と逆らわなければいいわけだからこの辺でいいよ。あーだるぽ。』

とやる気ナッシングだった上に、

征討軍参謀西郷隆盛

『まあまあ、この辺でいいじゃないでごわさんか。ここらで十分でしょう。』

と仲介したこともあり、さっさと戦わずに撤兵していくんだ。」

「朝敵を撃つ!といっていた割には案外簡単に引くのね。」

「ああ、このことで幕府が戦争をすると言っておきながら実際は戦わず、

意味のない動員で無駄に出費をさせたと諸藩に思わせてしまったことなどから、

幕府権威が又下がり、反幕府の潜在的な気運が高まったんだ。

それと、このことが2年後の第二次長州征討の一斉反対を呼ぶんだ。」

「戦ったところで莫大な戦費を消費させられたということで恨まれるだろうしな。

幕府としてはどっちを選択しても好感度が下がるのでやりきれなかっただろうな。」

「・・・・いや、好感度ってギャルゲーみたいな言い回しはやめろよな。

第一次長州征討が一応の成功(?)に終えたから、

ほんのちょっと幕府権威が回復したんだけど、好感度は下がったんだ。

でも、既に黒船来航以来ガタガタに崩れてしまっていた幕権ゆえに、

ちょっと直ったくらいではどうにもならなくて、

それどころか、これだけ幕権が崩れてきているんだから

『ちょっと誰かが強く押せば、かなりもろく幕府は崩れてしまうのではないか?』

と当時、ある程度の見識が有る人間なら誰でも見えていたんだ。

ただ、その強くといえるだけの力が薩摩一藩でも長州一藩でも、単独ではちょっと足らなかったんだ。

それなら、薩摩と長州が組めば・・・?おそらく幕府は崩れるんじゃない?とも予測されてたんだ。

しかし、薩摩と長州は『八月十八日の政変』以来どうしようもないぐらい仲が悪い、

特に長州の対薩摩感情の悪さを考えると、『絶・対!無・理!』と長州自身が思っていたし、

その他の誰も(一部除く)がそうだったんだ。」

「ヘルシングとイスカリオテが手を組めば、質でも数でも最後の大隊を圧倒できるけど、

感情的な険悪さからそれは絶対になされないと同じ事だネ。」

「いや、そのあってるんだかあってないんだか分からない表現は辞めろよ。

一方で、この崩れ始めようとした幕府を立て直そうとしていた一派が幕府にもいたんだ。

小栗上野介を中心とした一派で、こいつらは、『』を立て直せば幕府は十分に再建が可能と踏んでいて、

在日フランス公使ロッシュも激しく同意していたんだ。」

「ベッキー、柱って江戸城の大黒柱なのカナ?」

「どう考えても違うだろ。柱ってなんなんだよベッキー?」

「『』とは軍事力と金のことなんだ。

どんな権力でもその権力を正当化するのは最終的には『』だ。勝てばいくらでも正当化できるんだからな。

その力とは軍事力と金のことなんだよ。

この2点を押さえて、初めて権力という者は盤石になるわけだ。

片方が取れるとぐらぐらと不安定になり、どちらもなくなると権力の崩壊を意味するんだ。

これは、後の明治政府や現在の日本政府にも当てはまるから、しっかり覚えておけよ。

そういうわけで、幕府の軍事力と金を再建しようとする小栗達は、親幕的なフランスと軽く手を組むんだ。」

「軽く手を組むってどういうことなんだ?」

「この場合は、

対外輸出用の生糸の独占権やらを担保に、フランスから横須賀造船所の建設費用洋式陸軍建軍費用の他にも

幕藩体制を廃止し郡県制度を引くために反対すると思われる諸藩を叩きつぶすための軍費などを

借りるという事だな。」

「それはまた大きな借金になりそうですね。」

「もんすごい借金になったさ。それでも幕府は細々とやりくりしながら返していくのだけどな。

とりあえずフランスから借りた金で、

幕府海軍強化の為の横須賀造船所の建設費用

幕府の使えない旗本共に変わって新たな矛となる洋式陸軍の健軍費用

幕藩体制を辞めて郡県制度(後の明治政府が行った廃藩置県みたいな者だと思ってくれ)

を敷く為に反抗すると思われる諸藩を叩きつぶす為の戦争の軍費に使おうとするわけだな。」

「幕府でも近代化を推し進めてたのね。」

「そういうこと。こうして軍事力と金を得た場合、幕府は復活するはずだったんだ。

そうなると困るのが尊壌派浪士達や

郡県制を敷く場合の邪魔な相手として仮想敵国にされている薩摩・長州・土佐etc etcで、

それはあまり歓迎できないので、薩摩と長州の手をくまさせ巨大な倒幕勢力させようとする連中がでてくるんだ。

それが、坂本竜馬&中岡慎太郎を中心とした土佐勤王党あがりの土佐脱藩浪士達+αたちな。

彼らはなんとかして、薩摩と長州の仲違いをいさめ合体させようと努力する。

その際に論議だけでは駄目として、坂本竜馬亀山社中という貿易会社兼革命結社

仲介して貿易をさせて、お互いに手を組んだ方が利益がある事と示し、薩長双方の感情の矛を収めさせていったんだ。

いきなり政治的に結合は無理だから、経済で繋がりを持たせて互いに歩み寄るわけだ。

そうしてお互いに好感度が多少なりとも溜まったところで1866年の1月、

京都にて秘密裏に長州の木戸孝允(桂小五郎)薩摩の西郷隆盛が会合の果てに、

幕末最大の倒幕勢力『薩長同盟』を締結したんだ。

そしてこれが秘密同盟だったから、幕府も会津も薩摩が長州と手を組んだという確証がとれなかったので、

薩摩に遠慮した対応しかとれなくて、それが幕府崩壊の遠因の一つになったんだ。」

「つまり、幕府の力がまた巨大になる前に、

倒せるだけの力を持った勢力をつくって幕府を叩こうとしたのが薩長同盟なわけかな?」

ティターンズを叩くためにエゥーゴアクシズが一時手を組んだような者かな?」

「いや、全然違うし。というか、変な例えしなくても分かれよ!」

「そんな゛ぁ゛ー。」

「じゃあ、話が薩長同盟のちょっと前。というか数ヶ月前にもどると、

長州では、尊壌派のメンバーが佐幕派の追いつめられていたんだ。

で、このままやられてたまるかぁーってことで、

ブチ切れたのが高杉晋作と伊藤博文な。

彼ら(+井上馨)は下関戦争の講和の後、用が済んだので尊攘派ゆえに佐幕派から命を狙われるんだ。

さらに、味方のはずの尊壌派からも伊藤・井上は西洋にかぶれ。高杉は勝手に西洋と手打ちをした、

という事で狂信的尊壌派の連中からも命を狙われるんだ。

で、彼らはやばそうなのでさっさと藩の外に逃げるんだ。キチガイとやり合ってもしょうがないからな。

ほとぼりが冷めた頃見計らって還ってきたんだけど、

藩内の状況は尊壌派にとって悪化していて、尊壌派は全滅しそうになっていたんだ。

そのため、上記に記したようにブチ切れて武力クーデターにでるんだ。

武力クーデターといっても旗揚げ当初は、全戦力を合わせてもたったの80人。

佐幕派の全戦力は約2000人。25倍の戦力差だったんだ。

これだけの差だから勝てそうにないって事で、尊壌派の本体である兵隊が一向に動かなかったんだ。

奇兵隊というのは、高禄で養われている武士連中では戦争において糞の役にも立たないと言うことから

1863年、高杉晋作らによって創設された長州藩の軍隊で、

足軽・郷士のほか百姓・町人など藩の正規兵以外で組織されており

国民民兵の原型といえる組織なんだ。

初代総督は創始者の高杉晋作だけど、晋作はすぐに座敷牢行きになったため、

この時期の奇兵隊の実権は山県有朋が握っていたんだ。

彼は慎重な性格だったのでクーデターに勝算は無いと思い、中立であろうとしたんだ。

ところが、高杉達はたった80人しかいないのに、

下関の藩会所を襲撃し、続いて海軍局を襲撃し、軍艦を奪うなど戦局を有利にすすめていったんだ。

これを知った山県は

こりゃいける!よっしゃ高杉に味方するしかない!

と奇兵隊本隊を率いて高杉に味方をします。こうなると、たった80人に手を焼いていた佐幕派が、

奇兵隊本隊が合流し、質量共にそろった高杉達にかなうわけがないので、

なんと他愛のない。鎧袖一触とはこのことか!

とガトー大尉の声が聞こえてきそうな感じで、クーデターは成功し佐幕派は藩中枢部から一掃されるんだ。」

「まとめると、

佐幕派の弾圧に反抗して勢いで武力クーデターにでた高杉晋作達は、

回りの予想に反して善戦してたので、『こりゃいける!』と思ったその他の人達が高杉に味方したんで、

武力クーデターは成功したって事だね。」

「そうなんだけど、くるみはまとめかとも地味だなぁ。」

「地味って言うなあー!」

「それで武力クーデターが成功したので

尊皇攘夷派でまた藩論が統一されたのか。」

「そこなんだが、少し違うんだよ。

長州は下関戦争で、薩摩と同じく西洋との圧倒的な力差を感じていて、

そのため下っ端連中やキチガイ連中はともかく中堅以上の連中や主要メンバー、

この場合は桂・高杉・井上・伊藤・山県らは共通して、

攘夷(;´д⊂)ムリポを理解していたんだ。

だからこの時点で『尊王倒幕』になっていたんだ。

攘夷は幕府を叩くための口実、嫌がらせみたいなもんだったんだ。」

「要は言いがかりね。」

「よくある話だな。

こうして藩論が統一され、新体制になった長州のリーダーには桂小五郎がつくんだ。

高杉晋作は純粋な革命家で、政治には不向き。伊藤、山県はまだ身分が低すぎ。

井上馨は政府首班には不向きだったからな。」

「つまりこの時点で、長州をまとめる政府首班になれるのは桂小五郎だけだったわけか。」

「そういうこと、だから藩内戦のときになにもしなかった桂でも新体制の首班になれたんだ。

こうして佐幕派の旧体制陣を一掃したため、長州が再び幕府に対して牙を剥くのは明白だった。

それでかみつかれる前に、幕府はさっさと長州をつぶそうと、朝廷に長州再討の勅令を出すように工作をし勅許を得た。

ところが、早くも朝廷には長州マネーの工作が再び入っていて、

なんか、長州虐められてばっかでかわいそうでプー

と長州に同情的な意見がでていたんだ。さらに諸藩も

『前回は討つとかいって動員をかけおきながら一回も戦火を開かなかったのに、また動員ですか?

軍を動員するだけでも結構金を食うんですよ?つーか、もー金なんてないっす、借金だらけー( ゚Д゚)y─┛~~にはは』

と長州再征討に否定的で、薩摩に至っては『薩長同盟』があるので、出兵を拒否してるんだ。

それでも何とか各藩に無理矢理兵を出させて数をそろえた者の、今回の幕府軍は前回の時以上に志気が最底辺まで下がってるんだ。

数だけはあるが、やる気のない連中ばかりだったわけだ。

とはいえ、幕府海軍には長州を圧倒する最新鋭の大艦隊があり

陸軍は質・志気で劣るとは言え、長州を圧倒する大兵力だったから、

この第二次長州征討(長州側は四境戦争と名付けた)は、最終的には幕府の圧勝で終わると世間一般は思ってたんだ。」

某中将閣下も戦いは数だよっていっているしね。そうまちがいでは無いんじゃない?」

「基本的には、数は質を圧倒するからな。間違いではない。だけれど常に層とは限らないんだよ。

まあ、それはすぐに分かるけどな。

一方の長州軍は、陸軍装備は坂本竜馬や薩長同盟の関係から薩摩を通じてイギリス商人等から

大量に欧州の第一戦級の銃を購入していて、

同時に過去の遺物となっていた鎧武者姿を廃して、身軽になっていた奇兵隊は、

幕府軍に比べて高い攻撃力と機動性を保有しているんだ。

さらに奇兵隊は、軍制改革と近代戦教育されていて、近代戦に対応した軍隊に改変されていたんだ。

長州軍は、装備は最新鋭、兵制は西洋式、下士官・士官は一定の近代戦教育をうけていて、

かなり高い戦闘力を有していたんだ。

だけど上でも言ったとおりに幕軍との間どうしようもない差があったんだ。」

「兵力数と海軍力の差のことか。」

「そう。幕軍は総兵力15万を動員しいたのにたいし、

たったの長州は4千だったんだ。」

「兵隊の数だけで計算すると37.5倍の物量差ですか、連邦軍とジオン軍の戦力差よりも大きいわけですね。」

「連邦とジオンの比較がでたのは国力差だろ。

だいたいあれは扇動演説の最中だったんだから過大に評価しているぽかったし。

とにかく長州と幕府の兵力差は圧倒的で、さらに海軍力も考えるとその差は広がる一方だったんだ。

具体的な戦力の内訳は以下のようになります。

 

幕府軍

長州軍

大島口方面 当時最大の軍艦だった「富士山丸」以下「翔鶴丸」「旭日丸」「雲丸」「大江丸」など幕府自慢の海軍と四国各藩等で2万 洪武隊、第二奇兵隊など1千
芸州口方面 幕府直轄軍、彦根藩、高田藩、丹後宮津藩、津山藩、明石藩等で5万 遊撃隊、御楯隊、集義隊、鴻城隊など1千
石州口方面 福山藩、浜田藩、紀州藩、津和野藩、因州藩、松江藩等で3万 大村益次郎指揮

精鋭隊、南園隊、育成隊など1千

小倉口方面 幕府軍総督・小笠原壱岐守長行指揮

小倉藩、熊本藩、柳河藩、久留米藩、中津藩、福岡の九州各藩と幕府軍千人同心等で5万

高杉晋作指揮

奇兵隊、報国隊など1千

これを見ると幕軍がやる気ナッシングで旧式装備でも、

長州藩がこの圧倒的な物量差を跳ね返すのは無理だったんだ。

だけれど、長州は最終的にはこの圧倒的な物量差を跳ね返して幕軍に大勝するんだ。それはなぜか?」

「分かった!長州は、密かに人型機動兵器MSを作っていたんでショ!」

「んなわけないだろおおお、このアホ毛!」

「都ちゃ〜ん、おこったらやだよー。恐いよー。」

「おまえ等、それぐらいにしろ。授業が進まないだろ。

この絶望的な状況の中で長州藩が勝ったわけは、2点あるんだ。

まず高杉晋作が作り上げた奇兵隊、これは既に言ったけど、高い攻撃力と機動性を有していた。

そのうえ、自分たちでも武士を倒せると自身にみなぎっていた。

次に、幕府の第二次長州征討をだしに長州藩内の上下貴賤関係無しに一致団結させて、

この戦いを長州側は郷土防衛戦争にしたことだな。」

「兵の質で火力と機動性で勝らせ、士気は郷土愛をあおらせて高めたワケか。」

「序盤こそおされたものの中盤以降長州軍は盛り返すんだ。

幕府軍は、補給線が長い・各藩の寄せ集めのうえ総司令官がそれをまとめきれず不協和音、戦いが長引き士気低下。

と三つの泣き所もあり、長州軍は1対37.5という戦力差をひっくり返して、

幕府軍を相手に攻勢にでて、八月には幕府軍の本陣がおかれ、

今回の長州征討の事実上の総司令官の小笠原壱岐守長行がいる小倉城を陥落させるんだ。」

「いくら質・士気共に幕府軍の数段上とはいえ、37.5倍の戦力差をひっくり返すなんて、異常ね。」

「それだけ長州軍が頑張ったとわけだけど、

同時にこれは同じ日本人同士でも旧体制の軍備では新式の西洋軍備の前には、

数の差なんて全く意味をなさないこと示しているわけでもあるのな。

だから、明治の人たちは異常なほどに、西洋とは対決を慎重に避け、富国強兵にいそしんだんだ

もちろんこれ以外にも西洋への恐れを持つ出来事はいっぱいあったけどな

でも、この辺は受験にはでないから、受験生はそんなもんかとおもうだけでいいぞ。

むしろ、京都五山鎌倉五山とかでも覚えておいたほうがいいぞ。寺関連は受験日本史の文化史ではいやほどでるからな。」

「最後の方が、なんか微妙だが、つまり国内線でも西洋の恐ろしさを知る羽目になったって事か。」

「そんな感じ。小倉城が陥落し、長州軍は圧倒的多数の幕府軍に勝利を重ねてたんだ。

そのころ大阪城では、戦況は最悪のところに将軍徳川家茂が病死という大事件が起きる。

もはや長州征討の続行は無理であり落としどころを差がしていた幕府は、

これを口実に長州との間に講和を結び、第二次長州征討は失敗に終わって、

同時に幕府権威は完全に失墜して、反対に長州株は爆発的に上がっていくんだ。」

「長州の奇跡の大逆転ね。」

「9回裏の逆転ツーランホームランってところなのカナ。」

「そんな感じだな。

この講和のあと間もなくして、長州の最終兵器・高杉晋作が肺結核で死亡。

これで長州の軍事は、ここで全て大村益次郎にバトンタッチされるんだ。

長州藩内で『このまま勢いに乗って倒幕じゃあぁ』と叫びあげる連中がいる中、

大村は冷静に現状を分析をしてるんだ。

『確かに、幕府の征討軍を叩くことは出来たが、今度はそうはいかないだろう。

今度は幕府の存亡に関わる戦いになるだろうし、補給の負担が大きいのは今度はこちらだ。

なにより徳川慶喜自慢のフランス式幕府軍が動き出すだろう。

装備がこっちと同質なら、数が圧倒的に多い向こうが有利である以上、軽挙はできない。』

と大村はとても倒幕にはまだ早いと判断していたんだ。」

「最終局面になれば敵も強くなるのは当然だよね!」

「姫子、スパロボみたいなノリでいるのはやめたほうがいいぞ〜。

現実は、それと逆なことの方が多いんだから。

一方で、長州征討で敗戦した幕府はというと、

将軍位が空位ではよろしくないということで15代将軍には徳川慶喜が就任するんだ。

彼の人は卓越した政治手腕をみせ、幕臣達に

あれもしかしていける?

と信用をあつめ、長州を始めとする倒幕派には

こいつ結構できるぽくね?

と思わせるほどだったんだ。」

「幕府も上が変わって、持ち直すのね。」

「一瞬だけだけどな。この幕府の持ち直しの空気もすぐ終わるんだ。

慶喜が将軍に就任して、すぐに日本で最大の親幕家の孝明天皇が死んだんだ。」

「パワーバランスが崩れたのね。」

「親幕家の孝明天皇が死んでしまったので、朝廷内では幕府支持勢力は落ち目になるんだ。

1867年1月9日に明治天皇が践祚すると、薩摩・長州は武力倒幕に向けて本格的に動き始めるんだ。

手始めに長州は『朝敵』という汚名を薩摩の協力の下に返上し、

薩長両藩はどうにかして、一気に全戦力を京都に向ける名目と手段を作ろうと画策するんだ。」

「なるほど。そうして薩長と幕府とのガチンコが始まっていくんだね!」

「しかし、そうはならなかったんだ。存在を忘れられかけた土佐が動くんだ。

土佐は、長州が威勢がいいときは長州に荷担し、

長州の具合が悪くなると自藩の尊壌派に大弾圧を銜えて幕府に媚びを売りまくってたんだ。

ところが、ここに来て情勢が倒幕派と幕府の間で情勢が5分5分になってきたのでどうしようかと悩んでいるんだ。

早い話がコウモリだな。そんな土佐藩内で大弾圧を受けて壊滅状態だった土佐勤王党の残党と

板垣退助を中心とした若手の藩上士らが合流して密かに土佐を薩長ら倒幕派に合流させようとするんだ。」

「ここで薩・長・土の倒幕勢力ができはじめるのね。」

「いや、この時は、まだそこまでには至らないんだ。

なぜなら、心情的には幕府よりだが幕府が落ち目なので土佐のトップの山内容堂はまだどっちにもつかないで悩んでたんだ。

そこに、家老の後藤象二郎がやってきて

『もはや時勢は薩長にあり、幕府が盛り返すことは難しい。

なので、幕府は薩長が動く前にさっさと政権を返して一大名に戻る。

そこで、天皇を頂点とした各大名の横つながりの連合政権を提唱する。

その場合、一大名になった所で徳川は直轄領だけで400万石もの圧倒的な経済力がある。

このため実質的なリーダーは徳川のままになるだろう。

結果、政権を朝廷に返すべきと言っている尊王論者も封じ込めつつ、徳川家の温存できる。』

と山内容堂を口説いたんだ。

土佐藩としてはさらに、これを慶喜に建議してこの通りになれば、土佐藩もポジションが上がる。

という打算もできたので、容堂はさっそく慶喜にこのアイディアを報告したんだ。

慶喜としても倒幕派の攻勢をそらせるし、雄藩連合体制でも徳川が最大勢力なのだから、

政局の主導権を持てると考え、十月十四日に慶喜は諸侯を二条城に集結させ、

政権、朝廷に返すわ。じゃあ、今日から俺は一大名だから。あとは夜露死苦

と宣言する。これによって江戸幕府は消滅。これを『大政奉還』というんだぞ。」

「あっけない終わり方だな。」

「どんな巨木も切り倒されるときはあっけないということでしょうか」

「つまりは、どんなもんでも終わるときはあっけないって事だ。

大政奉還までやりとりが行われてる頃、倒幕勢力となった薩長側はというと、

薩摩は密かに、公卿岩倉具視と手を組んで『倒幕の勅許』を手に入れてる。

けれども、時既に遅く『大政奉還』がおきて、倒幕の理由を失っているんだ。」

「大政奉還の意義の一つの倒幕勢力に肩すかしを食らわせる、効果が出てきたのね。」

「とはいえ、これで諦めてらんないのが薩長。

ここで引いて、雄藩連合なんてのができたら主導権を握る徳川家に自分たちは今度こそつぶされるだろうからな。

倒幕構想第二弾として、大政奉還から一月後の12月9日に突然、『王政復古の大号令』が起きる。

名前はともかく、中身は薩長+岩倉具視ら公家によるクーデターな。

同日の夜、彼らは徳川潰しに法的根拠を持たせるために『小御所会議』をおこす。

その場で、慶喜が持っている内大臣の位と徳川の巨大な所領を朝廷に返上せよ、という『辞官納地』をだすんだ。

この辞官納地というのは、官位を朝廷に返上して、400万石という徳川家の直轄領を返せってものな。

薩長側は、これに逆らえば倒幕の口実になるし、うなずけば徳川の命運はつきるわけだから、

どちらを選ばれても全然かまわなかった。」

「随分と乱暴な要求をしてくるな。」

「慶喜としては薩長のねらいが分かっているからとにかく逆らわないようにする。

ところが慶喜と供にいた大阪・京都方面の幕臣達がブチ切れるんだ。

慶喜としては『もーなんでもいいーよー』ってな気分だったけど、

そんなこと言うとガンギレしている奴らに何されるか分からないので、

こんな不条理を押しつけられては溜まらないので嘆願するだけ嘆願しようという名目で旧幕軍と共に京都向かうんだ。

ところが、京都の入り口の所の鳥羽・伏見で

『京都にはいるなら非武装にしろ。でなければ入れぬ。』

と薩長両軍からなる新政府軍が、通せんぼをしてきたんだ。

旧幕軍としては憎いあんちくしょうの言う事なんて聞く気がないので、双方で押し問答が始まって、

そのうちにどっちかの大砲だか何かがぶっ放されてなし崩し的に戦闘が始まりっていくんだ。

これが、戊辰戦争の第一ラウンドである鳥羽・伏見の戦いの始まりなんだ。」

「とにかく薩長としては何が何でも戦争をしたかったのね。」

「そうなんだけど、意外にも薩長としてはこの鳥羽・伏見の戦いに勝てるとは思っていなかった。

なぜなら幕府軍は、旧幕直轄軍に会津桑名などの親藩合わせて1万5千

対して、薩長は京都にまだ全戦力がそろってないこともあり多めに見積もっても5千だった。

戦力比は3対1で、さらに今度は将軍自らが率いているから、勝つのは幕府だと思われていた。

ところが激戦を制したのは新政府側だった。これには新政府側の方が

ぶっちゃけ、ありえな〜〜〜〜い

と驚き叫んでるんだ。

一方の幕軍は、大阪城という巨大な難攻不落の要塞があるので、そこで十分に戦局の打開が可能と考えていた。

ところがすでにもうやる気がなかった慶喜はさっさと江戸に帰っていた。

上がいないのに下っ端だけでがんばってもしょうがないと判断した残存幕軍も、

大阪湾に集結していた幕府艦隊とともに江戸に撤退していくことになる。」

「偉い人が逃げては、下っ端は逃げるしか在りませんね。」

「下っ端だけががんばっても意味がないわけだから、逃げるのは当たり前だな。

新政府側に土佐を始めとする新政府に味方をする諸藩の戦力も集結したので、

『もう、これは熱狂的突撃しかないね。江戸に逃げた旧幕府を殲滅じゃあ』

と叫び進撃をしようするんだ。

、進撃しようにも新政府には財源らしい財源がまだこの時点ではなかったので金がなかったんだ。

薩長には多少は金があるけど、それも多いとは訳ではなかった。

仮にこの場は薩長の金を使って何とかしても、政府独自の財源を見つけなかったら根本的解決にはならない。

そこで、まず彼らは金を有るところから強奪するんだ。

近畿方面の大商人(三井・住友・鴻池・その他)から金を300万両ほど『ご用金として』強制徴収するんだ。

300万両ってのは幕府の総収入がだいたい100万両ぐらいだったから、幾らふんだくったが分かるだろ?

このため、江戸期の大商人はこの時に根こそぎ金を取られるから破産して、明治以降に残れなかったんだ。

さらに不換紙幣(太政官札・民部省札)を発行するんだ。

不換紙幣というのは金(ゴールド)と交換が効かない、政府の信用のみで成り立っている紙幣のことな。

こうして新政府はご用金300万両と不換紙幣を無理矢理に大量に発行し使っていくことで、財政的には息がつけたんだ。

しかし、この紙幣、出来たばかりの政府の信用しか成り立たせる者がなかったのと

新政府が大量発行したために、紙幣価値はかなり価値が下がっていて近畿地方にインフレを起こさせるんだ。

でも、そんなことを気にしない新政府は、金が工面できたので江戸に向けて進撃を始めるんだ。」

「乱暴な政府だな。」

「余裕がそれだけなかったんだろうな。

新政府軍は3月14日には、江戸のすぐそばまで進軍していて、

翌日に旧幕軍と新政府軍の間で最大の決戦になるであろう『江戸総攻撃』計画していたんだ。

しかし、これは起きなかった。なぜなら旧幕側の首領の慶喜は、やる気が無く絶対恭順を示しているので、

勝海舟が『上様がやる気がないなら、なんとか西郷と話を付けて江戸総攻撃を取りやめさせますよ。』

といって新政府側の総参謀である西郷隆盛とサシで話をして、

江戸を無血開城にする変わりに、総攻撃を辞めさせたんだ。

話がすんなりまとまったのは、江戸総攻撃があった場合、

江戸のすぐ近くの横浜の外国人居留地にも被害が及ぶということで、

イギリス・フランスなどが介入してくる動きを見せいてからなんだ。

外国に介入されるわけにはいかないと言うのは当時、新政府・旧幕府問わず共通の理解でした。」

「ほうほう、それで江戸城は開城されたんだね!」

「江戸城は簡単に明けた渡されたんだけど、人間はそう簡単にいかなかった。

江戸城明け渡しなどに納得のいかない旗本・御家人達は徒党を組み、上野寛永寺に集結し始めたんだ。

こいつらを彰義隊といって、最盛期には3千人ぐらいになるんだ。

対する新政府軍は、江戸にいる戦力が2千人程度ぐらいだったから

彰義隊はやり方次第で新政府を脅かすどころか、旧幕府勢力の巻き返しができたんだ。

だけど、彰義隊は発足理由から政略的な目的ではなく、人材もこれといっていなかったんだ。

そのため新政府軍の兵隊を集団で斬り殺すぐらいしかやってないんだ。」

「政戦略的な目的ではなくて、新政府への反動からできた集団だったわけね。」

「分かりやすく言うと、単なるごろつきの集団だな。

そんなわけで彰義隊は数は江戸にいた新政府軍よりも上だけれど、

烏合の衆にすぎず、速攻で新政府軍に破れるんだ。」

「脆いなー。彰義隊。」

「それで、彰義隊の残党以外にも結構な数の旧幕府残党や反新政府勢力がいたんだけど、

新政府軍に撃破されて、北、乃ち東北・北海道方面に逃げていったんだ。

なぜなら北には、京都守護職をしていた松平容保の所領である『会津藩』を始め、

反新政府側の諸藩が奥羽越列藩同盟などを結んで一大反抗勢力になっていたんだ。

この東北諸藩と新政府の戦いを『東北戦争』と言って、戊辰戦争最大の激戦区なんだよ。

会津や長岡が中心となって反新政府軍として徹底抗戦していくんだけど

結局、時代の流れに逆らいきれず、会津・長岡と奮戦していた両藩は降伏。

徹底抗戦の中心となった2藩がいなくなったので

奥羽越列藩同盟の諸藩ももうダメポってことで全面降伏していくんだ。」

「これで反新政府勢力は全滅したのカナ?」

「いや、まだ終わってないんだ。

旧幕府直轄陸海軍の残党と東北諸藩脱走部隊の連中がまだ殺る気満々だったんだ。

まあ、いってみればデラーズフリートみたいな連中だ。

こいつ等は、東北がダメだと分かると蝦夷(北海道)まで行くんだ。

蝦夷の豊富な土地資源と、旧幕の人材をを呼びせて合わせることで

独立国家である函館政府作り上げようとするんだ。

しかし、新政府がそんなことを許すわけもなく、新政府は函館政府を認めず、

新政府と函館政府の間で、函館戦争が1869年4月から始まるんだ。

激戦は一ヶ月ほど続き、結局函館政府は降伏することになるんだ。

それで函館政府が降伏すると戊辰戦争も終わって、幕末ではなくて明治の世になるんだ。」

「終わりの方が急ぎすぎている気がするけど、とにかく幕末はこれで終わりだね。」

「そうだな、一応は。あれ?そういやくるみいたのか。途中から出てこないからいなくなったと思ったよ。」

「ひ、ひどい・・・・・」

「幕末は後の大平洋戦争まで影響していて、大変重要で後の対米戦は、

ペリー来航の時点でフラグが成立していたとも言えるんだ。

じゃあ、一時間目はチャイムがもう鳴るので終わりだぞー。

2時間目は明治期前半(明治初年から国会開設ぐらいまで)をやるからな。」

 

 

−ここでやったことの年表−

1853年、黒船襲来。日本、上から下まであひゃる。でも将軍が死んだのでそれを理由にお引取りしてもらう。

1854年、黒船再び襲来。しかも江戸の近くまで侵入。幕府今度は逃れることが出来ず、条約締結に。

1856年、下田にハリス総領事来日。日本に貿易を目的とした通商条約を求めるものの、日本側の天皇の拒否により却下される。

1858年、井伊直正が大老に就任し、天皇の無許可でさっさと外国と条約を結ぶ(安政の5カ国条約)。

      同時に直正の敵対派閥である一橋派(+尊壌派志士)への大弾圧が始まる(安政の大獄)。


1860年、井伊直正にブチ切れた尊壌派脱藩志士等が直正をなます切りにぶち殺す(桜田門外の変)。

      このころから京都における治安が急速に悪化。理由は尊壌派志士の天誅騒ぎとそれに便乗した押し込み強盗などのため。


1862年、幕府主導の公武合体を押し進めていた老中安藤正信がブチ切れた尊壌派志士に襲われ、逃げ出したのでそれを責められ失 脚する(坂下門外の変)。

      島津久光が上京する。このとき何かを勘違いした尊壌派薩摩藩士が騒ぎ出すので、久光さんがとりあえず部下に命じて全員 殺して静かにさせる。(寺田屋事件)。

     久光さん、朝廷の権威と薩摩の武力を背景に幕政改革を促す(文久の改革)。

     久光さん、江戸からの帰り道無礼なイギリス人達をぶち殺す(生麦事件)。


1863年、将軍家茂が攘夷宣言のために京都に行くので、その護衛として江戸で腕の立つ連中が募集される。

      下関で長州が、下関を通っていく外国商船などに対して「攘夷」と称して砲撃を始める。

      イギリスが昨年の生麦事件のリベンジに薩摩に襲来し、双方痛み分けとなる(薩英戦争)。

      長州が最高潮にはじけているが、その裏で薩摩と会津が手を組んで長州を追い落とす(八月十八日の政変)。

      新撰組が設立される。京都の治安を回復させるため浮浪浪士をガンガン斬り始める。

(この間に尊壌派浪士状況打開のために、過激な行動にでる。しかし小規模であり散発的でもあったため、いずれも失敗に終わる。天誅組の変・生野の変・天狗党の乱など。)
1864年、尊壌派志士京都にて一撃大逆転の計画をするが、会合当夜、新撰組にばれて襲撃される(池田屋事件)。

      長州、昨年以来の状況の巻き返しのために嘆願という形で朝廷と接触しようとするが、薩会に邪魔されて思うようにならず。ブチ切れて実力行使にでるが、逆に薩会にぼろくそに負ける(禁門の変)。

      昨年、長州に砲撃されたのでリベンジにイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国からなる連合艦隊が下関を強襲し、長州軍をズタボロに叩く(下関戦争)

     朝敵、長州を討つと言う名目で西国三十数藩に動員が下される、結局長州の恭順もあり戦火は交えず12月には撤兵する( 第一次長州征討)


1865年、高杉晋作らがブチ切れて武力クーデターにで、成功し、長州は新体制の樹立・藩論の統一がされる。


1866年、坂本竜馬・中岡慎太郎の仲介で、薩摩と長州の間に秘密同盟『薩長同盟』が結ばれる。

      第二次長州征討が始まるが、長州軍の奮戦の結果、大方の予想と違って長州が勝利する。幕府の権威が完全に無くなる。

      将軍徳川家茂が死ぬ。これを理由に幕府は長州征討から兵を引き上げる。

      第15大将軍に徳川慶喜が就任する。

      親幕家の孝明天皇が死ぬ。


1867年、1月、明治天皇が皇位に付く。

      長州『朝敵』の汚名を返上する。

      10月、徳川慶喜、大政奉還をし、徳川は一大名になる。

      12月、薩長+岩倉による武力クーデター『王政復古の大号令』

      同月、徳川潰しを合法化とするための『小御所会議』が開かれ、慶喜、『辞官納地』が言い渡される。


1868年、1月、旧幕軍と新政府軍の戦いである戊辰戦争の幕開け、鳥羽伏見の戦いが始まる。

      4月、勝と西郷の会談の結果、翌日に予定されていた『江戸総攻撃』は回避され、江戸城無血開城となる。

      5月、彰義隊追討

      9月、会津若松城が落城し、奥羽越列藩同盟もほど無く降伏する。


1869年、4月、新政府軍と函館政府軍との間に戦端が開かれる。

      5月、函館政府降伏。これをもって戊辰戦争は終決する。


次のページに行く

不愉快なのでかえる

 

レベッカ宮本先生の日本史授業

これらのサイト様からアイコンをお借りしています。

maaと愉快な仲間たち